21世紀の漢字廃止論はなぜ、理性の私的使用にNo!と言えないのか?

‪21世紀の漢字廃止論はなぜ、理性の私的使用にNo!と言えないのか?


漢字を読むとき色々考えなければならないという、それが効率がよくないという。恐らく出版社の行き過ぎの宣伝だろうけれど、そうして漢字が日本語を滅ぼすというだけの根拠で、漢字廃止をいうのはどうなんだろうかね。発想の大転換が必要だ。漢字もまた、苦労してそれを読んでいる人間の過去のこと、また未来のことを一生懸命考えているのである。‬たとえば、漢字書き下し文で考えられた思想として注目したいのは、明治維新の近代を批判した思想が幕末にあらわれてきたことだ。人間の本質的平等観に立って、国は一国知に陥ることなく、自ら学ぶことによって、万国の智に向かって拡充しなければならないという。漢字廃止論の問題は、このように漢字書き下し文で考えられた思想をもっていないから、明治維新の近代を批判的に相対化する視点が成り立つことがない。朱子学脱構築していった17世紀の漢字書き下し文で考えられた思想は、カントと同時代的に、形而上学存在論を否定して、人間の有限性から考えたと指摘される。17世紀が問題になってきたのは、理性の私的使用についてである。今日の文脈においてみると、なんでもかんでもカネがものをいうように、公の中心にいる「安倍さんに靖国に行かせてあげなさい」と語るのが理性の私的使用である。だけれどそこでは、人はやっていけなくなるとする道徳性が成立するのは、ほかならない、人間の有限性においてである。21世紀の漢字廃止論は、植民地時代の近代を批判するようなことを言っているが、漢字とともに漢字書き下し文で考えられた思想を棄ててしまったら、明治維新の近代に依存するしかないではないか。