方法としての17世紀

‪方法としての17世紀


後期近代を迎える20世紀が自らの行き詰まりをみせたとき、なお近代しかないというようなことになったとき、何とかしなければいけないと考えた知識人たちのなかには、近代が始まる17世紀は何かと問う者たちがいた。ポスト構造主義からは、そのとき、ありのままの17世紀を語っているようにみえても、20世紀の物の見方とは異なるし、また18世紀と19世紀に配置されないような、方法としての17世紀の見方が問われていたのである。フーコがいう人文諸科学とは、様々な学問に投射されている思考の配置においてあらわれてほかの場所にあらわれることがないが、(私の理解では、理念的に構成されているので)、投射されているスクリーンからは、背後から投射してくる光源を見ることができないように、背後から突き刺さってくる投射してくる近代の限界を問う思考の配置それ自身をみることが不可能である。思考の配置が可能とする、方法としての17世紀はいかに、20世紀が失敗したかを語ることになるだろう。17世紀は語る。過去(古典)というのは乗り越えることができない完全さをもっていた。そうだとして、そこからどういうことを言おうとしたのか?17世紀は近代は古典と対等であることを否定する必要がないという認識?(しかし対等という観念は、過去からの独立を意味していく危うさを孕むのではないか?) ここで、アイルランドの現代演劇の場面を思い出す。それはイギリスのゲール語を禁止する植民地化政策の19世紀、教育を受けることができなくなった村民のために自発的に開かれた青空教室(ヘッジスクール)を描いた作品である(ブライアン・フリール『トランスレーション』)。なんとかしようと古典ギリシャ語とラテン語を村民に教える校長先生と彼に英語を教えてくれともとめる若い女性の間の会話..。‪(17世紀の知は体系と原理に自らを築くとき、アカデミーと公の議論による言説の空間の成立を通じてである。17世紀と18世紀、19世紀を考えるとき、フーコの四角形の表ー主辞繋辞関係、分節化、転移、派生ーから規則の働きの変換の仕方をみることができるが、20世紀は表ではなく、流れによって特徴づけられるのだけれど)‬