アンドレ・バザン André Bazin

アンドレ・バザン André Bazin


アンドレ・バザン『映画とは何か』(野崎、大原、谷本共訳)を読むことにした。30年前に投げだしてしまった、「写真映像の存在論」とは何かを再び考えている。「リアリズム」とバザンがいうものは、他の「リアリズム」と比べることができない、映画の書記的原点をトリノの聖骸布とするリアリズムである。だから映画にとって論じるに値するのは、死体に防腐処理を施して人間の不死を可能にしたエジプトのミイラ、時間のねじれを空間に嵌め込もうとしてうまくいかなかったバロック絵画である。「映画とは、写真的客観性を時間において完成させたものであるようにおもわれる。映画はもはや、過ぎし時代の昆虫が琥珀が無傷のまま保つようにして、事物を瞬間のうちに包み込んで保存するだけでは満足しない。映画はバロック芸術を、痙攣的な強硬症(カタレプシー)から解放する、その結果、事物のイメージは初めて、同時にその持続のイメージとなり、変化それ自体のミイラとなった。」バザンのリアリズムは、カメラから考えられているのだが、ただし本を読むひとがもつカメラなのであり、それは、議論できる公の場所に向かって命題関数として構成される、したがって言説と等価のものである、と、やっと私は理解しつつある。「レンズ」はなにか、言説の形成を殺戮してくる沈黙として存在すると考えられている。結局、70年代後半から始まるゴダール『映画史』は、50年代後半に世に問われた言説<バザンの映画とはなにか>をいかに読み解くのかという試みだったのではあるまいか。『映画史』が実現したとき、そこで、廃墟のほうに消え去った映画の栄光が一瞬よみがえるはずであった。映画は消滅したが、究極的に映画の不死を可能にするミイラとして、映画の歴史はいつ完成するのだろうか。今日なお映画は制作されているのであって、映画は消滅したわけではないが、「映画は消滅した」と考えてみたらどういうことが言えるのか、それを考えてみようというのである。問題は、あまりに多くの映画がある点にある。現実と溶け合あう形で映画的なものが氾濫するなかで、映画は消滅しきったとき、存在しないものが存在するかという形而上学的問いの方へ、映画は行くのである。百年後は、最後まで、偶像崇拝を禁じる宗教との距離を消すことがなかった異邦人として映画という似非芸術を思い返すことになるだろうが、バザンがあえてカトリック的に考えた存在の問題を、偶像を愛するゴダールイスラム的に考えることになったと語られるのかどうかは定かではない。



バザンのリアリズムは、カメラから考えられているのだが、只し本を読む知識人のカメラなのであり、それに対応して、観客は本を読むひとの視線をもっていると想定されると私は考える。暗闇の中で言説と等価なものが形成されるはずなのだ、たとえ市民が生きる公の場のような光が欠けていても。光は無くはない。「レンズ」とは、現実世界を完全に模倣できるような、言説の形成を殺戮してくる沈黙として存在すると考えられているとしたら、スクリーンとそれを見るひとの溝は埋められるのだろうか?しかし最悪の映画とは溝のない映画だろう。と、わたしの深読みか...