包摂と展開

「包摂」は前の時代のルネッサンス的概念だけれど、スピノザにおいては「展開」のことが考えられてていくことになったといわれる。動物にに成る、とはなにか?「包摂」は人間だとしたら、「展開」(過程)は動物でしょう。この場合、後者は前者を規範的根拠としてもつことがない。そうして考えてみると、どういうことが言えるか?ドラキュラというのは、「包摂」と「展開」のあいだに定住するというかね、そういうことじゃないか。仁斎がいう人も天を規範的根拠としてはいない(仰ぎ見るお天道様であって..)。「展開」はなんか、再び漢文に翻訳できない、漢字書き下し文の運動をおもうな、それは思想の運動をともなう。共通であること、分節化されないものってそういうことじゃないかと