ゴダール

論争<"ユダヤ的ランズマン"vs."カトリックゴダール">


1985年に制作されたドキュメント映画『ショア」は、95年に日本で公開された。クロード・ランズマンゴダールのあいだの収容所をめぐる"ユダヤ的"vs."カトリック的"と揶揄された論争があった。この論争は、70年代後半から構想されたゴダール『映画史』の作り方に無視できない影響があっただろう。論争について、やや図式的に整理してしまうと、偶像否定から抽象化の道へ行く"ユダヤ的"にとっては、禁欲的に、映像は事実を説明するためにある。映像は存在するかしないかどちらかと考えるだろう。それにたいして、"カトリック的"は偶像に依りながら思考のなかの映像とその言説に介入する働きを考える。記録マニアのナチスが撮ったはずの収容所の内部の映像が出てこない。しかしゴダールによると収容所というものは映像によって再構成できるし、そうして犠牲者たちを救済しなければいけないとする。映像、すなわち徴は至る所に(Les signes parmi nous)はどこにも存在する、と。ランズマンの側からすると、ゴダールはあまりに過剰な語りというか、文学的過ぎると理解しただろう。確かに、事実としての映像が出てくることが決定的であるというのは説得力がある。しかし考えておかなければならないのは、事実の意味である。将来、人類に対する犯罪を示す決定的な映像、ガス室の映像は出てくるかもしれないが、極右翼がそれを見てもなんにも感じなくなっているかもしれないと心配されている。日本の歴史修正主義者の問題でもあるが。しかしこれは例外的な事柄ではないか。問題は、事実としての映像の不在に直面する現在のあり方である。見ることができなくなったとき、(見ることそのもののの自明性が疑われる場合も含めて)、倫理的なものがなければ、人間はやっていけなくなるだろう。見ることは倫理的な営みであるとするゴダールの出発は重要だと私は思っているのだけれど