支配者の言語

支配者の言語に「服従していない」のは、オリジナルな言葉があったからだというが、だけれどね、過去に支配者が来る前にそれなくしてどんな共同体の言葉もそれほどオリジナルティがあったのかどうか?多分これは、親の環境なくして子供の独立した純粋世界があるのかという類の問いとある程度同じである。逆に、支配者の言語に「服従している」ということもできない。支配者言語をつかって独自に発展していく思想がかならずあるだろうから。やはり言語が子供の思考の自立をたすける場合とくらべられるかも。そうして共同体は、外部からくる支配者の普遍的言語から「服従していない」とはいえないし、(服従しっぱなしという意味で)「服従している」ということもできない。この言葉との関係は神秘的ではない。それはニ項対立的には分節化されない世界なのではないか。支配者の普遍的言語を、不可避の他者として名づけること。そこから他者との関係において自己の��言葉との関係をはじめてかんがえることができるものなのかもしれないとおもうようになってきた。ま、過去の漢字であれ将来のアメリカ語であれ、支配者の言語について、居酒屋あたりであんまりくどくどと「俺は愛していない」などという奴は結局愛しているのさ....