伊藤仁斎

ドン=スコトゥススピノザの思想の影響を読み取るエーコの説明では、ジョイスは普遍言語と等価なものは普通の人々がつかう日常の言葉によって成り立つと考えたという。同時代的に、地方言語の英語で書いたシェークスピア、イタリア語で書いたダンテ、フランス語で書いたデカルトなどにおいて実現したという世俗化の意義がいわれる同じ価値をもって、漢文で書いたが漢字書き下し文で考えた(と私は理解している)仁斎の仕事の意義をもっととらえてみるべきではないか。『朱子語類』の漢字にたいして、17世紀における卑近なものが至上なものである。卑近なものは漢字書き下し文であるとしたら、どういうことがいえるか?嗚呼、仁斎論語の講義で『童子問』を読んだときもうすこしこのことを真剣に考えてみるべきだったと後悔しているのだけれど(オリエンタリストみたいに、常にヨーロッパのことをかんがえているからダメなんだな。)仁斎は朱子学にたいして思想闘争を行った。かれは「理先気後」の言説を批判している。この場合、根拠としての優先順位をもつ分節化されない「理」の意義が、神秘主義からとらえられてきたことを批判したのではなかったか。それは、「理」は啓蒙主義的なアプローチから理解されてくる必要があったからではないか。脱構築的である、「理」をもつことは、宇宙第一の書に「人」の「道」が成り立つために不可欠だったとわたしはかんがえてみようか
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なにも変えるな!‬すべてがちがたものとなるように。卑近なそのそばに至上なものが宿る