ゴダール『映画史』4Bの最初に、ミッシェル・フーコ『ディスクールの秩序』(1971)の言葉がひかれる。ゴダール伝記本のひとつによると、『映画史』は、声にコンプレックがあったゴダールにナレーター役として語る場を与えたというようなことを記しているが、それで何かがわかったわけでもないだろう。<我見る、故に、我考える>のゴダールは、20世紀を、忘却された全体の回復を、映像が過ぎていく瞬間にゆだねようとするのであるー『失われた時をもとめて』のプルーストがmadeleineの香りにゆだねたように。エミリー・ディキンソンが言うように、「もっともはかない瞬間こそが、華々しき過去を所持するように」と。そこには、ファシズムの時代の戦争の問題への独自の新しいアプローチがある。そしてあえて、沈黙する思考の映像を声にゆだねてみることは事件ではなかっただろうか?以下は中村雄二郎さんが訳したそのフーコの一文。
私にはよくわかる、先ほど私がなぜ、あれほどの困難を覚え、なかなかはじめられなかったのかが。今では私にはよくわかる、私に先行していて、私を後押しし、語ることを誘い、私自身の言説(ディスクール)に定位してほしいと、私が願っていたのは、どんな声であるのかが。言葉を発するのを、あれほど恐ろしいことにしていたのは、何によることだったのかが私には分かる。私が言葉を発したこの場所は、彼の話を私が聞いた場所であり、ただ私の話を聞こうにも、私はもうそこにはいないのだから。
et je comprends mieux
pourquoi j’éprouvais tant de difficulté
à commencer tout à l’heure
je sais bien maintenant
quelle est la vois dont j’aurais voulu
qu’elle me précède
qu’elle me porte
qu’elle m’invite à parler
et qu’elle se loge dans mon propre discours
je sais ce qu’il y a avait de si redoutable
à prendre la parole
puisque je la prenais en ce lieu
d’où je l’ai écouté et où I’m n’est plus, lui pour m’entendre
ー Foucault
and I understand more fully
why I had so much difficulty
in starting just now
I know now
what voice it was that I might have been wished
to precede me
carry me
invite me to speak
and establish itself in my own discourse
I know what was so intimidating
about speaking
since I was speaking in this place
where I used to listen to him
and where he himself is no longer present to hear me
ー Foucault