ポスト構造主義

中学生の夏休みか、高校生の夏休みだったか、『精神分析入門』を読んだとき、知識もなく正確に理解できていなくとも、フロイトの言い間違いの裏側を明らかにしていくその分析の徹底に驚いた。解釈とはこういうものか、と、正体不明なものとの遭遇にワクワクしたものである。現在では、『古事記』の漢字の裏側に正体不明な領域があると考えてみたらどういうことが言えるかと問う方法が、フロイトにおいて考えられたと私は考えるようになっている。方法とは何か?方法は、戦略的に正体不明にすることによって、解釈するスペースを作り出すのである。そこで、オイデプスとか大和王国が実体としてあるというようなことが言われたのではない。間違いを恐れずに言うと、私の理解では、破片としてのひとつ一つの言い間違いや漢字は、解釈可能な裏側をもっているから、全体としての構造が成り立つことが可能だというのである。ポスト構造主義構造主義の批判とは如何なるものか?『野生の思考』の文化人類学精神分析と同様に、ヨーロッパ中心主義の普遍主義を批判するとき、方法としての構造主義に依った。だけれど、他との関係(非西欧)によって絶えず自己との関係を再構成していくあり方を考えるとき、なお構造を起源における内部必然として捉える19世紀的見方に絡みとられていることが問題とされたとおもう。そこでポスト構造主義は、記号論という物の見方のなかから、それとは異なる構造という物の見方が構成されてきたかを論じることになった。同様に、「世界史の構造」というオイデプス化、「帝国」の時代におけるポストモダンモダニズム化に対して、それを相対化するために、アンチ・オイデプスとしてのポストモダン孔子とその意味を論じようとしている