ミクロ全体主義

‪1、全体主義に対する警告は非常に用心深く行う必要がある。教条主義的な二項対立に還元されることがないように、創造的な言論活動を収縮させないように、言説が展開する条件を保つことは大切だとおもう。 2、さてそうして、あえてドゥルーズが問題提起した新しい全体主義とは何であったか?もし哲学は主体を持たなかったら、いかに全体主義と闘うのか、と言うドゥルーズが考えていた抵抗の拠点としての主体は、古い全体主義に対してではなく、新しい全体主義に対してである。 3、古いマクロ全体主義は、権力の集中が推進する戦争を持っていた。ナチスファシズムや国家祭祀の天皇ファシズムのマクロ全体主義が終わったとき、一層それを完成する形で、新しい全体主義を可能にしていくのは、隅々まで監視される身体、表情と言葉ー声に定位する権力の拡散である。 4、このミクロ全体主義と呼ばれる現実をそのまま容認するようでは、やっていけなくなる。だからこそカントを読み直すことによって、主体ー論理的には矛盾しているけれどポストモダンの主体ーが実践的に要請される。主体と欲望も関係を理論的にどう考えるかについて争いがあるが、この隙間を埋める必要がないと思う。主体と欲望の隙間を含めて、卑近なものに至上なものが宿るのであると私は考える。 5、最後に、戦争については、戦争が無かったといわれるが、国民総力戦が無いのは、見えない戦争が存在している痕跡ではないかと疑うことも意味がある。今日の問題は、ミクロ全体主義は戦争をもたないから、共同軍事演習が戦争だという認識すら成り立たなくなったのかもしれないという点にある。‪『ユリシーズ』に証言されているように、戦争に対してはマスコミは頼りにならないのかもしれない。実際にマスコミが腐敗したチームの広告塔になった国では、戦争が見えてくるのは、事実に先行した言説ー物の見方を問う思想の闘争ーに関わることではないかとだんだん理解するようになってきた。‬