ヘーゲル‪ 『法の哲学』を読む

‪ 『法の哲学』の読みは学生時代にさかのぼる。精神が定位する人格は自由の理念を指差して即自的とか対自的であると読み解いただけでは、灰色に灰色を塗る抽象とちがわない。精神はあたかも「所有権」のように、理念を自分のものにしなければ意味がないだろう。『法の哲学』を読んだマルクスはこのあまりにブルジョア的な語り口にのけぞっただろうか。否、‪ 『法の哲学』を脱構築せよ。と、巻かれたら巻き返せとばかり、「実現される」「現実化される」「見出される」の語彙のほかに、<もつ>とか<もたない>という言い方がもつ見方を学んだのではなかったか。今日なおヘーゲルを読み切れていないわたしの読み間違いかもしれないが。マルクスヘーゲルが理念を物として思弁的に語ったように思弁的に語ることはたしかだ。グローバル資本主義の現在ならば「99%」のことだが、プロレタリアは哲学をもつこと、あるいは哲学はプロレタリアをもつことによって、開かれてくる可能性がある。民族にgood bye ! 人間にHello !と。問題は、21世紀にとってその哲学は何だろうか。言語的存在としての人間にとって、分節化されない世界として根拠としての理が優先的に存在すること、これはだれももっている理である。「この道しかない」というわけではないし、「理」なき日本人ファーストの方向でもやっていけなくなる‬