国の身体を物語る国体論

国家の身体 後期水戸学のイデオロギーでは、国体の「体」は身体の「体」を意味するとのことです。国体はすなわち国の身体。その身体は、(ロマン主義的に)永久に存続する有機体のイメージがありますが、そういうことでもなさそうです。仮に国の身体は戦前と戦後に二回終わったと考えたらどういうことが言えるでしょうか?明治維新150年の欺瞞は日本国家の身体が70年で終わったことを隠蔽する点にあるのと考えられないでしょうか。国家の身体はソビエトと同じように70年で終わってしまいますから、Fbの友人がズバリ指摘したようにヒトの個体的持続性を超えるものではなかったということに。それに、国体ー国家の身体に定位している固有のものーは、指摘されているように、どこの外国の妄想(プロイセンの哲学とか)だったりするらしいですね。こんなものは国の身体と同じように作り物だからなくなっちゃうのは当たり前で...