ニーチェ

‪サイードだけれど、人間は亡命の場所をもつから知識人が成り立つと言っていたと理解している。そこではじめて反時代的に知識人の形而上学の依拠が成り立つとしたら、問題は、人間はどんな場所に属さないことについてどう考えるかである(「故郷喪失者」の意味)。仮に人間はどんな場所に属さないと考えると、これからどういうことが言えるだろうか。全体と部分の関係のように「属する」よりも、差異を「みつける」ことが要請されているということか。卑近にある「国内亡命の場所」では自己自身が差異になるしかない‬。そこに至上なのものが宿ると言われるのはどうしてか?自分一人だけだったら事件性もなく、簡単に答えがみつかるかもしれないというのに。分節化された世界の卑近性と分節化されない世界の至上性に共通なものがないだろうから、答えをみつけられないに違いない。ただ存在はこの二つの間で往還するだけである。ニーチェhttps://www.facebook.com/photo.php?fbid=10216596783849645&set=a.10204437539556137&type=3