MEMO

福島の経験からなにを学んだのか? 「外部電源喪失、周知せず 北海道・泊原発、地元4町村」

「空は丘に対する境界線となり、山脈は空を隔てる。大地は海の輪郭を描き、今度は海があらゆる大地を区切るだがあらゆるものの彼方には、それを終わらせるものが何もない」 “ Finally the objects we have before our eyes set the limits to one another. The air acts as a boundary to the hills and the mountains to the hill. The land outlines the sea and the sea in its turn outlines all the land. But beyond everything there is nothing to bring it to an end. “ ‪“ Schließlich begrenzen die Gegenstände die wir vor Augen haben‬ ‪die Luft dient als Quelle für die Hügel‬ ‪und die Berg für die Luft‬ ‪die Erde begrenzt das Meer‬ ‪und das Meer wiederum begrenzt alle Landstriche‬ ‪aber jenseits von allem‬ ‪gibt es nicht, um ohm eine Grenze zu setzen “‬

「天地」といっても、実際はわれわれの眼前にある物体は互いに互いを遮っているのだから、「天」と「地」とが境界線もなく媒介なく結びつくのは、魔術の助けを借りないとしたら、自然哲学の最低限な理念的なものであろう。ここから、「天」の終わりなき主宰性ー道徳性ーも理念性が、「天道」から自立するのは何によるのか?17世紀は、「あらゆるものの彼方に終わらせるものがない」はずなのに終わってしまっているとリアルに認識する時代なのだろう。そういうものとしては、「応仁の乱」における天皇・寺社・貴族の支配から成る権門体制の終焉がある。

これは歴史家が考えるべき問題であるが、この問題の性質からいって、専門知に任せておけば済むという話でもない。京都の政治権力を失った天皇が「象徴天皇制」と同じような権威を保っていた可能性をどう考えるか。乱暴に言うと、戦後憲法の「象徴天皇制」に先行する形で、徳川日本に「象徴天皇制」が存在したのである。そういう可能性は、天皇政治責任をもたせた明治維新のあり方を批判するために必要とされた言説として考えられるようになったようにおもわれる。言説とは、その時にはじめて言われたことでも、遡ってずっと前からそう言われてきたとする作り物的な仮装である。問題は、その内容ではなく、批判性をもった位置と機能である。明治維新天皇の政治権力をもっていたから、昭和十年代の軍国ファシズムが成り立ってしまったのである。それなのにどうして明治維新150年を祝うことができるのか!?

政治不信も過去最高だとしたら、信頼の崩壊は、満足している・満足していないという尺度で測られるような物質的なものから起きてくるということではないらしい。 ー>過去最高。7割以上が「現在の生活に満足している」(読売新聞・世論調査)

‪その土地を訪ねたことがないのにだれもがゲルニカとその出来事を記憶している。どうしてだろうか?思想は絵画になったからか?「ゲルニカ」に先行する時代。ピカソは同時代の人々を不安にさせた腕の形の影が伸びる少女たちのヌードを描き続けた。幕と彫刻が画家の心を隠蔽しているがこの方向に意味があるかが確信がない‬みたいだ

(子安さんの投稿より) 「思想史講座」のお知らせー9月のご案内 子安宣邦 *だれでも、いつからでも聴講できる思想史講座です。 *「明治維新150年」がいわれています。「明治維新」と「日本近代」との当たり前のこの結びつきを読み直してみようと思います。この読み直しを私に促したのは津田左右吉明治維新観です。津田は維新に国民的変革としての正当性あるいは正統性を認めませんでした。この維新観は私に「維新と日本近代」との読み直しの可能性を与えました。この大きな課題に半世紀にわたる私の思想史作業の総決算の積りで応えたいと思っています。 *「明治維新と日本近代」は9月からしばらく「国体」の問題をめぐって考えたいと思っています。まずはじめに「国体」概念の創出をめぐって考えます。 *論語塾は「鬼神論」をテーマにして新しい講座を始めました。「鬼神」とは「祖霊」であり、「霊魂」でもあります。これを「祖霊」といば鬼神論とは祖先祭祀を基礎づける論の性格をもち、これを「霊魂」といえば人の生と死、生前と死後とを包括した宇宙論の性格をもちます。この鬼神論を考える前提として『朱子語類』を読み始めましたが、次第に後者、すなわち『朱子語類』によって朱子宇宙論的哲学世界を読むことが論語塾の中心的課題になりつつあります。

時代を超えて、トゥーランドット姫とひかりちゃんとが織りなす共謀関係のことが仄めかされていて、なんだかこれはおもしろい展開になっていくかも🤣 姫トゥーランドの名前を知ったのは、プッチーニのイタリア・オペラでした。美しく冷酷な姫トゥーランドットと結婚するには3つの謎を解くことが必要で、謎が解けないと、首をはねられてしまう決まりがあります。国家が決まりを守らない者を死を以って罰した側にいた特権的存在ですね。

ブレヒトはどう描いたのか全く知りません。投稿なさった文を読まさせていただいて想像しているのですが、現代の姫トゥーランドは、だれもがトゥーランドット姫であり得るということですかね。この点は興味深いです。 比べてみると、現代の姫トゥーランドが生きている社会のことについても考えると、昔と違って、ミクロのレベルを包摂してくる洗練された権力をもっていて、何というか、権力者に監視されていないけれど、だれもが日常的に健康の問題をはじめとして自己管理できなければ、トゥーランドット姫のようにこの世の中で貴重な存在となることができないというプレッシャーがあるというようなことは指摘されるところですよね。 限度なき自己規律というのでしょうかね、限度なく自己が自己自身の隅々までを監視するようになってしまった世の中の編み目から脱出できるための考えるヒントがこの芝居にあるのかもしれないとおもう観客たちもいるでしょうね。わたしもそんな一人です。 ひかりちゃんと姫トゥーランドの脱出ゲームを感じさせるものがあるのかなあ、と、勝手にワクワクしていていますが、ゴメンナサイ(劇団員の方書いていましたように舞台の屋根も壁もない建築物です。きっと脱出できることでしょう ^_^)。 と、調子にのって長々と書いてしまいましたが、何であれ、ポスト・ブレヒト小屋の新しい芝居の形を先取りするような何かがひかりちゃんのトゥーランドット姫から出てくるんだろうとおもってますよ、わたしは ♪( ´▽`)

ich glaube, das Kino ist die Sache des neunzehnten Jahrhunderts die im zwanzigsten Jahrhundert aufgegangen ist es gibt immer eine Verschiebung je dirais le cinéma c’est l’affaire du doc-neuvième siècle qui s’est résolue au vingtième siècle Il y a toujours un décalage (Godard)

アボリジニーズが使う楽器はディジャリドゥーという木の筒っぽのようなもので、それを吹いて音を出します。また、ブーメランや狩猟に使う槍を叩き合わせてリズムをつくります。昔から語り継がれている、「ドリームタイム」と呼ばれる神話を音に託して、部落の長老が、若い人たちに語って聞かせます。ー 武満徹

歴史修正主義者が「日本を取り戻す」と言っても、その歴史修正主義を正さぬ者が「正直、公正」と言っても、うつろな感じがしてしまうのは、まさに思考にとって歴史を考えることの意味を議論するときがきているのに何も議論されないままでいるからかもしれない。彼らがやらないなら、われわれがやるしかないではないか

肉体は死してびつしり書庫に夏 ー寺山修司