「沖縄を見る目」

「沖縄を見る目、アムロが変えた」という今朝の新聞の大見出しをみて、軽い気持ちで、北アイルランドを見る目をU2が変えたいわれたことと比べてみようとした。しかし段々溜息がでてきてしまった。「沖縄」は吉本が語る「沖縄」であった。あるいは、柳田の「沖縄」、柳の「沖縄」、大島の「沖縄」、そして大江が語る「沖縄」。「沖縄」はだれかが語る「沖縄」にしか存在しない。言説「沖縄」はどういう意味をもっていたのか?日本人のアイデンティティを発見する場として投影されたとき、それで一体何かわかったことがあるのだろうか。厄介なことに、古代テクストの現在との存在論的な連続性に言及する連中が書いたのを読むとね、古代国家の多元性みたいなことを平気で読み解くのは、明治維新の作り物語と同じことをやっているのじゃないかしらと疑うのだけれど

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沖縄が何を考えているのかを話を注意深くきいて、沖縄から学びたいと思います。「十本指」のたとえで、「アイデンティティ」を言い、と同時に、この語とは反対の方向から、何処とも「繋がる」ことの大切さも訴えておられます。指が思想をもつとしたら、それはどういうことを言っている思想でしょうか。ここで沖縄問題を扱った講義を思い出しながら考えたことを言うと、敵味方を問わず魂を共に祈るというあり方と深く関係しようとしている思想の一つであり得るかもしれません。「29人の呼びかけ」と国連が指摘している困難に直面していますが、議会と人権と沖縄世論を尊重したうえで、理念的に何にも包摂されない海上のネットワークのような自立的に開かれたあり方を構築できるのは、ここからではないだろうかと考えています。(記録は『鎌倉ノート』より)