『仙境異聞』とはなにか

80年代ポスモダン言説は閉じているとみなされ、前近代と非難された。70年代の批評精神ほどのものを失って文化多元主義の方向にそれほどすすむことがなかったと近代主義者からみえたかもしれないが、まだ思考は続いていた。たしかに近代というのは非常に強力ななにかであり、開かれているかもしれないが、もし開かれていることのその意味を問わず相対化しないならば、思考が足りないと言わざるを得ない。少なくともポスト構造主義は閉じていることの意味を考えたではないか。(近代主義は閉じている意味の分析をやめてしまって、前近代に対して、閉じているから閉じているとただ裁くだけとなったようにみえる。) さて鎖国体制のように閉じている時代に成り立つ、境界の向こう側にある特異点のような異空間でも、境界の彼方側にある情報を絶えず取りいれているのである。異空間にみえても、(例えば網野善彦の王権モデルが描くようには)神とか天皇との距離を諦めてしまい思考そのものが成り立たない外に向かって思考を放り出してしまうことが起きない。『仙境異聞』(岩波文庫 子安氏校註)はそういうことを教えてくれる。「寅吉200年」の言説とはそういう意味をもっている