‪感想文 ; ブレヒトの芝居小屋『トゥランドット姫 あるいは 嘘のウワヌリ大会議』(ブレヒト作、公家義徳 上演台本・演出)‬

‪1、トゥランドット姫といえば、プッチーニのオペラ。美しく冷酷な姫トゥーランドットと結婚するには3つの謎を解くことが必要で、謎が解けないと、首をはねられてしまう決まりのことはだれもが知っている。知に依存するオリエンタルな国家が表現されている。さてブレヒトの芝居はこのオペラが明らかにすることができないものを示した。それは切実な問題であることも明らかにした。「信なければ立たず」。これは為政者に対して言われた古代の言葉である。知識の本は豊富にある。だけれど信はどうか?国家は信なき国家となってしまっている。ここを見逃してはならない!ブレヒトの皇帝は、木綿が手に入らず、着る物にも事欠く民に対して、なぜ木綿がないのかを問うたが、もし私が皇帝だったらと想像した。何を問うだろうか。このことを問うかもしれない。答えを出すようにと行う質問は、「奇妙な響きをもつ“トゥイ”とはなにか?そして東京演劇アンサンブルが東京演劇アンサンブルであるためには?」である。‬

‪2、最初の答えは、本公演パンフレットの中にちゃんと書いてあった。ブレヒトは知識人Intellektuelleをトゥイと呼んでいる。(トゥイ(Tui)とはブレヒトの造語(知識人 <I>n-<t>elkekt - <u>elle を分解して頭文字を逆に読む)。ブレヒトがこの芝居を書いた1953年の問題意識を、現在2018年に置き換えて考えてみようか。芝居は、トゥイのあたかもクイズ番組の回答者に成り下がったその姿を嘲笑っているようだ。この光景は、なぜかくも多くの者が文化人になりたがるのかということと無関係ではない。知識人が出て来なくなったのは、自己の発言に責任をとらなければならない知識人よりは、責任のない文化人を選ぶからである。‬芝居をみてこのことを考えさせられた。

‪3、ここから、二つ目の答えがみつかるかもしれないとおもっている。東京演劇アンサンブルが東京演劇アンサンブルであるためには、それはなにか?知識人とはなにかと自己について問う行為が終わってはならないというこである。芝居を思い返す。終始皇帝が恐れていたのはじつはここだったのである。芝居が私を驚かせたのは、皇帝がデモ弾圧し野党的存在のリベラル知識人になりうる可能性をもつトゥイを殺戮し尽くすその後に、皇帝と御用学者との間のそれほど単純ではない関係を観察していたことである。知の力はすなわち支配の力か。皇帝は支配するために知の力に頼らざるを得ないあり方。知識人たちが語る皇帝の全く知らない言説を住処としていくことは、皇帝にとってこれほど危ういパラドックスはないだろう。そうであるならば、これは言説に関わる頗る怖いほどの現代の風景ではあるまいか。

3、権力の場から距離をとっている教師ゼンとかれを助ける少年が登場する。ゼンは、直に権力にたいして反抗の直接的行動をとることはないが、決して傍観しているわけではない。ゼンは彼以前に誰も言わなかったことをはじめて口にするのである。彼は兵隊に抗議する。そして微かな声で、驚くべき大切なことが語られる。思想が大切だ、思考することが奪われてはならないと。彼もまた、国内亡命の反時代的な言説をつくっていた。このとき、ポスト・ブレヒト小屋のあり方を再構成していくとしたら、とわたしは考えた。ゼンの言葉の力をどうしても書かなければならなかったブレヒトの切実な問題意識と言説的構成が大切ではないかと思うのである。いかに、先駆的であるがブレヒトが必ずしもはっきりと考えてはいなかったゆえに今日のわれわれが考える必要が出てきた言説の配置のあり方を読み解くか。‬

4、‪皇帝と洗濯女の一人二役の力のある演技に注目した。世の中で私自身が貴重な存在となれるようにと、だれもがトゥーランドット姫であり得るように、だれもが皇帝であり得る。洗濯女ヤオから、皇帝の心の孤独な影に投射される。と同時に逆投射がある。洗濯女は共同体を思考の対象にして、生活している自分たちのあり方を考えようとする。はじめに書いたように「信なければ立たず」。国家はそういう信なき国家となってしまっていることをどうするのか。問題は、皇帝への先祖返り的な同一化にあるのではないようだ。問題は、祖国とか愛国心に絡みとられてしまうと、戦争を導く国家を批判的に相対化する究極的な自己が追求できなくなってしまうことにある。と、そのように、2018年の問題としてわたしは考えていくだろう。最後に、偉そうなことを言うようで恐縮であるが、演技の面で充実していく必要があると感じたのは、皇帝とトゥランドット姫との関係ー 仮面の父と仮面の娘との関係ーだろう。ここがもっとはっきりわかってくるならば相当に面白いだろうと思うのである。また、このことだけは言っておきたい。空間をもっているから俳優が成り立つ。長い渡り廊下のようにある、まるで言語の端みたいな、舞台の空間を支配することはそう易しいことではないだろうけれど、若手の男優たちにかかっている課題であると彼らに期待している。‬

‪ (追記) ‪このブレヒトの‪劇評のなかで、”仮面の皇帝と仮面の姫“と書いてある一文を読んで、姫は素顔なので変だと思う方もいらっしゃるでしょうが、わたしの見方では、顔の下に仮面が存在しているのです。衣装も仮面かぶっています。舞台も仮面をかぶっているかもしれません。と、このように考えてみたら、ただの仮面劇の近代ではなくて、仮面が顔を仮面にしているという構造劇の脱近代ー構造からいかに脱出するかを問う問題提起ーが成り立っています。ここから豊かな複雑性を孕んだ色々な可能性が出てきます‬