ブレヒトで読む現代中国

「名の知れた人の言葉が、すべて名言であるとは限らない。少なからぬ名言は、むしろ農夫や田舎の老人の口から出たものだ。」(魯迅)

1、ブレヒト戯曲のおそらく議論をよぶ思想の部分ー2018年の現在からいかに50年代の戯曲を解釈するかーについて語ることは、簡単ではなく難しいです。とくに中国を話題にすると、かならず喧嘩になっちゃうからですね。だけれど、皇帝中国を舞台にした芝居を見て、敢えて天安門前広場抗議の弾圧を文革の反近代の問題と結びつけて考えてみようとするのは、このわたし一人でしょうか。経済政策の失敗をいうかわりに正常性を言い支配の秩序について何もかも説明し尽くすために学者を招集した「皇帝」を批判的に描いてみせたこの芝居は、大切なことを考えるための手段です。

2、‬「国民は自らの下にあるものを、自らの上に置いている」les nations ont au-dessus d’elles quelque chose qui est au-dessous d’elles. と、19世紀の文学者ヴィクトル・ユーゴは教えてくれるこのことを、世界資本主義の分割である「帝国」が現れてくる21世紀のコンクテクストにおいて解釈しないとすれば、文学の文学以上の意味をわがものにすることが難しいでしょう。アジアの国民は自らの下にあるものを、自らの上に置いているようです。ここで問題なのは、「上」と「下」をひっくり返しても、別の「上」が出来上がってしまうだけであった社会主義の歴史を考えないわけにはいきません。現実にとうとう社会主義国家に「皇帝」が現れることになった現在の事態を考えるためには、近代化を担う主体であった近代官僚制に対する反近代の破壊があった、「文革」という名の政治的災害とそれへの共感がもたらしたものを考えてみようと思っています。

3、アイルランドはこの20年間で、ファンダメンタルを批判する形で多元主義の方向をもつ政治的自由を推し進めたことをおもうと、自民党的アジアをみようとする日本言論のナショナリズムを満足させる形で、アジアは専ら経済的事柄が進むだけで、ヨーロッパと比べられるような多元主義の方向をもつ価値ある政治的自由が困難なのでしょうか。この思考の欺瞞に絶望しないとすれば、現状肯定的にシニカルになるしかないのですか。否、われわれは全知全能の神ではありません。正常性に向かって何もかも説明し尽くすために学者を招集した「皇帝」でもないのです。また何でもかんでもカネが解決できるとする全知全能の市場でもあり得ないのです。たかが理念、されど理念、まだ抵抗をもつことができるとすれば、アジアは経済的自由だけを追求すればいいのであって政治的自由は成立しないと教えてくる全知全能の完全な知という神話にたいしてだと思うのであります

20世紀とともに、ソビエトが発明した現代国家も、中国が発明した現代の民族の概念も終わりました。今現在、発想の大転換が必要。アジアは連帯責任を負う。アジアにおいて為されることはことごとく、アジアが為すと。人類に立つグローバル・デモクラシーのアジアが要請されているのではないでしょうか。人類は、「世界史の構造」「帝国の構造」で再び物語られるような国家的民族的視点とは別の眼で眺めます。良心です。「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」