<説教したがる男たち>悪

<説教したがる男たち>悪

説教したがる男たちは特権のなかにいます。特権が見えないのは特権のなかに属しているからだという問題は、倫理的な問題です。こういう問題は、父なるものが孕んでいる問題で、法の問題としてもっと考えてみなければならない問題なのかもしれません。説教したがる男たちのなかに自身を説教している稀なひとたちもいます。啓蒙主義は自己に啓蒙するように、説教は自己に説教するというか。説教したがる男たちを人類史でみていくと面白いのではないでしょうか。最後に説教した人はテレビの大島渚だったとおもうのですけれど。(ゴダールロッセリーニのように説教師だったら映画はもっと単純になったでしょうけれど)。一番最初に説教した人は親鸞ですかね。衆生に説教しても救うことができないのになんで説教してるんだろうかと『教行信書』で書いていましたよね。色々な見方があります。モダンな感じですが、親鸞も自身の説教に対し疑問をもっていたということ。哲学的にいうと、自身の特権性を問わない説教にたいする反感は、歴史的に形成されたもので、学問の権力を独占していた僧侶にたいする思想的反発を精神が内面化していると考えてみたらどうだろうかと思っている所です。元々民間神道も街頭で説教する儒家的伝統をもっていたのですが、近世の宣長みたいな人から儒者が説教する理念性の言説を嘲笑うというか反感をもつということが起きてくる話に興味があります