MEMO

‪どこの国の誰でも自分の国について喋り始めるといきなりつまらなくなる。あれはなんだろうね?国家哲学を語るからだと思う。だけれど国家は言論のなかにしか存在しない。例えば誰と誰が語った日本とか、誰々が語った明治維新しか存在しない。日本とか明治維新が実体として存在しているとずっと思ってきた‬

柴山文科相は馬鹿じゃありませんか。教育勅語“普遍性持つ部分ある”と言っても、五十数ヶ国と戦争させた独善的な一国主義の“普遍性”なんか信頼できないんです

映画の感想とおんなじで、どう語られるかという語る人の視点のなかにしか映画は存在しないと思うのですが、同じように明治日本もそう。演劇のロゴスみたいに日本国家が存在していると思われてきました

一国主義的な「伝統的家族観」スピリチュアル系が慄く異常さは、出会いの共通の空間そのものが都市では崩壊していることに由来している。無理に、共通の場を前提とする本質主義者が異常さを言う。だけれど、明治維新の50年前に、『仙境異聞』の寅吉を通じて証言されていたように、おどろおどろしいものはひとつも存在しない。排除されるべき異常なものとは、まぎれもない近代知の構成にほかならない。われわれの思考と場所においては、繋がっているそこに、豊かで多様な知が無媒介に隣り合っているだけだ‬。

人と視点の関係を、思弁的に物として考えるとどういうことが言えるかがわたしの関心を占めるものです。時間の流れに先行した、不透明で、漠然としていているところを更に沈めてしまうもの、思考としかいえないもの。哲学的に言って、実体というのは、統合されたものとされるのですが、そうではないと思うのです。実体は分裂しているというか、他と共通なもの、他によって成り立つもの、他を排した<一>によっては統合できないものだと理解しようとしています。このような実体概念はポストモダンに依拠するのですけれどね。ところでこのような実体概念にたいする反発が常に起きてくるのはなぜかと今考えています。

教育勅語」のモデルとなったものについてですが、皇帝の下で臣民(官僚)は皆平等に、と、これを社会主義的に理解した考え方が昔あったそうですけど、なににしても、だからどうしたんだ?何か主体的な哲学があるのか?というような話ですよね。臣民(国民)を鞭でうって黙らせるような、国体的一国主義の統制としての教育でしょう?これにたいしては、江戸時代には中江藤樹が特に『孝経』を重視して、殺されるかもしれなかったのですが脱藩して武士の身分を棄てて、母にたいして異常な親孝行を実践して(皇帝に代わりに母を宇宙の中心にした)、反時代的に生きたことの意味を考えました。母がそれほど至上なものかは別として、卑近なものを大切にして自発性をもって理想を生きたこちらのほうに、時代を超えた普遍性を感じますね。

‪この家を借りて十年になろうとしているのか。

言葉によるとか言葉を住処とすると考えたらどんなことが言えるか。言葉は、周辺が包摂に周辺される形式化された言語の場合(構造主義)と違って、常に外部の問題が成り立つと思う。

Max Weber 『プロテストタントの倫理と資本主義の精神』と「教育勅語」を比べた視点は面白いです。資本主義に巻き込まれてはいけない、独立しなければいけないと教えてくる「精神」「労働」の原理主義から、ファシズムスターリニズムが成り立つことになったといわれます。この点について、渡辺一民によると、ヴェイユルノー自動車工場の肉体労働の経験から「労働」になんの意味(形而上学的意味?)がないことを知っていたので、同時代のフランス知識人のようにはスターリンの「普遍主義」の体制に幻想を持つことがなかったただ一人の思想家だったというのですね。もちろんこれは解釈によるヴェイユ像の再考で、わたしは勉強が足りなくてこの辺のことははっきりと言えないのですけれど、『言葉と物』を訳された渡辺氏は、フーコの神話的思考への反抗はヴェーユから現れたという独自の見方をもっていました。ヴェイユは、バタイユと同じように、形而上学神秘主義のラデイカリズムの側にいた思想家とみえるのですが、そうだとして、形而上学存在論に立脚するところから、原理主義の神話性を批判できたということでしょうかね。(ゴダール『パッション』はヴェイユに捧げた作品と思います。) 社会契約論についてですが、たしかに、国は「知らんぷり」ですね。どんどんそうなって行くのですかね。子安宣邦氏が荻生徂徠の仕事を読み解いて、徳川時代に、政治神学的な社会契約論と等価な言説があったことを指摘なさっています。問題は、いくら社会契約論と等価な観念はあることはあっても、結局明治維新はクーデターでした。基本的に、この150年間はクーデターを反復する形で(例えば大逆事件)、国は自らを恐怖の体系として完成させていったところがあるようにみえます。結局『教育勅語』は市民に対して黙れと脅しているわけでしょう?国に逆らうと怖いと思わされているので、市民運動が広がらず破綻してしまうのですが、わたしが目撃したヨーロッパの市民運動と全然違う所です。

普遍主義は、憤りを住処にしていることは思います。ボルヘスならば、われわれの時代と場所は、思考に不可避的な笑いのなかにある、というでしょうか。また、誰が普遍性を語るのかということによるでしょう。わたしも同意見です。アジアの普遍主義と言っちゃうと矛盾している感じですが、アジアが語る普遍主義ならばOKだと思います。この機会にこれについての自分の理解をちょっと整理してみようと思うのですけど、付き合っていただけますか?アジアの仏教(華厳経とか)なんかに究極の平等思想があるかもしれませんが、アジアは平等を実現する方法をもっていないので、ヨーロッパと向き合うことが大切となります。問題は帝国主義の暴力。そこで、帝国主義の暴力なき、西欧を超える普遍主義の再構成が課題となったはずですが、『教育勅語』の国体概念に影響されて非常に悪い形でこれを模索しなければならなかったということではないでしょうか。『教育勅語』に普遍性など微塵も無いというのがわたしの考えです。道徳の源は日常卑近の人間関係のなかにあって、そこから一人ひとりが自分の心を人類の視点へと充実させていく努力が要請されているのであって、(なんか柄谷が好むカント的憲法前文みたいな感じですが)、この点はカント的「仁斎論語」の読みから導かれた考え方なんです。大袈裟に『教育勅語』が教えるように国家が道徳をつくり出すのではないとおもっています。国家の時代は500年ぐらいですからね、その前の時代に今日影響を与える道徳は存在しました。例えば反明治維新のわたしは応仁の乱の道徳に突き動かされているかも

映画において、先ず映像があるという。ここで、映画が提示する運動についてだけれど、運動それ自身ではなく、本を読む人が見る運動のあり方が問題とされている。運動と、映画において見られた運動との間には共通なものは存在しない。本を読む人は論理の映像(住処)しか思い出せない(否、思い出すことができるというべきだ、わたしのように論理の映像すら思い出せなくない愚鈍なものは)。だけれど本を読む人が論理的映像(住処)しか思い出せないのは、運動を考えるようになる映像(旅)をもたないことによるのかもしれない。私はそう語る。否、そうではない。思考が先行する。それは要請されている。思考が先行するとしよう。そこから、思考が自ら関係するもの(時間)をさがす外への旅によって、時間の映像(写真)が絵(空間)にメタモルフォーゼできたとしたら、考えることが可能となる。と、考えるために映像が必要だったと語ることになるだろうか

反発しても構わないのですが、ポストモダン思想が受容された80年代に酷く反発されました。ポストモダン思想の正体は、主体が形成されていない前近代の右翼的な思想だというような点を指摘してくるのですね。しかしもしそうであるならば、国家を批判したヨーロッパ左翼思想が右翼とされてしまいますね。<一>の国家を内面化した立場から多元主義にたいして行うような非難は、後進国市民社会が国家と同時に成立した歴史について考えさせられます。ややっこしいですが、国家を批判する市民社会の左翼に対して、国家を批判すると同時に国家を内面化している左翼が批判するという...。グローバル資本主義の時代に、再び同じ国家に戻る必要もないし、そもそも不可能なのに、一所懸命国家を作り直そうとする言論に疑問を感じます。