『フィネガンズ・ウェイク』

柳瀬尚紀さんのお仕事は、FWの冒頭文、riverrunnsを、「河走」と訳して​、せんそう(戦争)と読ませているんですが、これは、100冊以上読んだといわれるご本人の研究と、デリダジョイス解釈に負っています。出版​社の要請を受けて、宮田恭子先生が、柳瀬さんの仕事を利用​して、宮田さんの見方に基づく新しい翻訳をつくりました。

riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.

文学者でないアマチュアでありますが、わたしはこれについて自分の考え方をもっていて、これを示しておくことも全然無意味ではないだろうとおもうようになりました。覆われるものと覆うもの。見る者にとって、覆うものが覆われるものの本質を構成しています。覆うものは本質でも固有なものでもないのです。さて、riverrun (ジョイスフィネガンズ・ウェイク』(Finnegans Wake)の有名な書き出し)の読み方については色々な考え方と読み方があるが、「河」は覆うものとして先ずあるとわたしは考えます。「河」たちは本質を構成しても、本質に非ずという点が大事。民がほんとうに依拠できるものは、ほかならない、「河」だと言っているところが、『フィネガンズ・ウェイク』が『フィネガンズ・ウェイク』であるゆえんであると考えています。 依拠できるのは覆うものにと思うのは、覆うものだったらうまくいかなければ他のものにとりかえればいいじゃありませんか。覆われるものに絡みとられると、「この道しかない」ということになっちゃうでしょう? だれかが語る「河」のように、誰かが語る国家であれば、 ‪グローバルデモクラシーへ行く言論の国家に立つのであれば、ナショナリズム世界文化遺産の如き閉じた国家哲学に絡みとられていくことはないわけです、というようなことを言ってみたいわけです。

https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10216877063016449&set=a.10204437539556137&type=3