『フィネガンズ・ウェイク』

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riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of bay, brings us by a commodius vicus of recirculation back to Howth Castle and Environs.


柳瀬尚紀さんのお仕事は、FWの冒頭文、riverrunnsを、「川走」と訳して​、せんそう(戦争)と読ませているんですが、これは、100冊以上読んだといわれるご本人の研究と、デリダジョイス解釈に負っています。出版​社の要請を受けて、宮田恭子先生が、柳瀬さんの仕事を利用​して、宮田さんの見方に基づく新しい翻訳をつくりました。

たしかに、アイルランドの独立のときに起きた内戦のトラウマを語らずにはアイルランドを表象することができないのですね。ジョイスアイルランドのすべてをこの本に書いたと言っています。十分にイギリス人と戦わず、アイルランド人同士で殺しあってしまったのです。平和になっても、銃による政治が決して終りません。しかしアイルランド時代に大変お世話になった宮田恭子さんは、柳瀬さんとは別の考えを持っておられて、民族間の戦争を強調しない訳をつくりました(中井久夫に励まされたようです)。riverrunnsは、川は流れる、ですね。ジョイスはフランス語の発音を利用して、夢が走る(レヴェロン)というかんじで読ませたかったようですが。『フィネガンズウエイク』は、何語で書いてあるのかわからない、(分かっているだけで50カ国語を使っているが、かろうじて英語か?)、何を書いてあるのかわからないのですが、この本は、世界中の翻訳者の解釈によってそれぞれの国の言葉で翻訳されてだんだん正体がわかってくるというような本です。翻訳が先行する、ほんとうに不思議な本です。


文学者でないアマチュアでありますが、わたしはこれについて自分の考え方をもっています。覆われるものと覆うものの関係を考えます。覆うものは本質でも固有なものでもないのです。「河」は覆うものとして先ずあるとわたしは考えます。「河」たちは世界の分節化だとしても、世界の本質に非ずです。民がほんとうに依拠できるものは、ほかならない、「河」だと言っているところが、『フィネガンズ・ウェイク』が『フィネガンズ・ウェイク』であるゆえんであると考えています。 つまり依拠できるのは覆うものにあります。覆うものだったらうまくいかなければ他のものにとりかえればいいじゃありませんか。覆われるものに絡みとられると、「この道しかない」ということになっちゃうでしょう?国家哲学に絡みとられていくことはないわけです、というようなことをわたしhs言ってみたいわけです。