映画を考える

映画と呼ばれていたものは、運動によって成り立つイメージのあり方と、時間によって成り立つイメージのあり方があるといわれてみるとなるほどぴったりくるものがある。何にしても、最初から、本を読む人が映画を見ることの意味が問われていたのだから、読むことと見ることの関係が証明されなければならない。証明というとなんか大袈裟だが、映画を語るとき、文学者の思い出してみる視点しか言われてこなかったのは本当だ。映画のために映画に代わって語るならば、考えるようにと見ることの意味が言われなければ...。知識人が成り立たないといわれるポストモダンの時代にあって、たとえ知識人は哲学者でなければならないと言ってももう仕方ないとされても、映画を見る人は哲学者でなくちゃいかんと言ってみようというのである。映画における思考の形式を文学などにゆだねることはできないと言ってみようか。 映画において、先ず映像があるという。映画が提示する運動について語られる言葉だけれど、そこで、運動それ自身ではなく、本を読む人が見る運動のあり方が問題とされている。もちろん運動と、映画において見られた運動との間には共通なものは存在しない。映画館の暗闇のなかでまるでスクリーンの代わりに本を読む人は論理の映像(住処)しか思い出せない(否、思い出すことができるというべきではないか、わたしのように論理の映像すら思い出せなくない愚鈍なものは...。)だけれど論理的映像(住処)しか思い出せないのは、運動を考えるようになる映像(旅)をもたないことによるのかもしれない。常のこととして、映画の存在については映像的論理が思い出されるだけで、(論理のほうへ消滅し切ったのか?)、こちらに向かって映画が思考する孤独が考えられることはなかった。と、私はそう語る。否、そうではない。まったく反対だ。思考が先行する。要請されている。思考が先行するとしよう。そこから、思考が自ら関係するもの(時間)をさがす外への旅によって、時間の映像(写真)が絵(空間)にメタモルフォーゼできたとしたら、思考しようとする物を考えることがはじめて可能となる。と、考えるために映像が必要だったと語ることがゆるされるか。こうしていつも痕跡をまえにして、繰り返される。考えることと映像の分裂を解決できないままに、光の世界の無関心に放りだされてしまう。オーストラリアにある洞穴の時代からずっと呟いている...