道徳学

道徳は学ぶものです。教えることができません。それはどうしてなのか、「教育勅語」がいったいなにをもたらしたかということを考えるのは「今」ではないでしょうか。このことを前提に、いかなる歴史的条件のもとに道徳学が成り立ったのかを考えることが必要になると思うのです。自分のことを反省してみると、今日でしたら日本会議明治維新に帰れとするナショナリズムの批判的相対化でしょうが、「国民道徳」「国家祭祀」を批判的に相対化する視点を本当に自分のものにしているのかと自身に問いかけたのは四〇代になってからでした。ヨーロッパから東京に戻って来たとき日本ナショナリズムの勢いを目撃して、これに対抗するためにはヨーロッパ市民道徳だけで十分なのかと危機感をもったのです。勉強しはじめますと、五十代になった現在も勉強は続いていますが、ヘーゲル世界史から発展した「近代の超克」、岡倉天心の問題意識を継ぐ和辻倫理学、限定されたある短い時期の北一輝と大岡周明のアジア思想などが、主観的である非常に豊かで複雑な構成をもっている点を学びつつあります。これらばかりでなく、朱子学を解体していく仁斎の道徳学、再び朱子学的に考える徂徠の制作学などですね。日本人という言葉は苦手ですが、あえてこの言葉を使うと、日本人は自分の頭で考えたこういう全体のことを勉強しようにも、明治以来変わっていないといわれる大学のカリキュラムに無いようです。学校教育は学校教育で、「借りた傘を返しましょう」の道徳と同じくらい無意味な内容の資料「教育勅語」を生かす学習でしょう?そもそも学校教育は教える体制ですから、この体制のもとで、西欧の最高の思考であった哲学をヘーゲル以降学べなくなったように、アジアの道徳学も学ぶことが難しいというのが私の理解です。申し訳ないのですが、学校は体育を廃止していただいて、そのかわりと言いましょうか、その時間を利用して、全国の高校生たち、中学生たちに、ぜひ子安先生の『論語塾』に来ていただきまして、日本ナショナリズム批判を行う複数の道徳学を、共に学ぶ機会をもてないだろうかと願っております。