漢字論

‪言葉によるとか言葉を住処とすると考えたらどんなことが言えるか。言葉は、周辺が包摂に周辺される形式化された言語の場合(構造主義)と違って、常に外部の問題が成り立つと思う。さてそう考えると、われわれは言葉を通じてわれわれ自身を認識している。と書くのは急ぎ過ぎている。外部がなくなってしまう。ここに、「日本人の自己認識における漢字問題」(子安氏、『漢字論 不可避の他者』、「あとがき」にかえてー漢字論という視点。岩波書店2003 ) について考える意味がある。共有するエクリチュールを基盤にした二つの国の間の「同文同種という幻想」が働くとき、共有性又は共通性を自然化してしまう問題を指摘している。指摘されたもう一つの問題は、共有性又は共通性がないからといって、そのかわりに、漢字借り物論の若き一国主義的な視点に依存した近代の物の見方(固有なもの)をとることができるか、である。このような内部からは、漢字を思考するのが不可能となってしまうだろう。そこに人類の視点に依拠する普遍主義はないからだ。普遍主義とは何か。漢字についてのありきたりの見方にしたがうことができないように、普遍性についのありきたりの見方にしたがうことはできない。普遍性についてのありきたりの見方は、他者はほんとうに普遍主義を住処とすることができるのかという問題を考えてこなかった。徳川時代儒者たちがいかに朱子学を読んだかを学ぶとき、始原的テクストを読む普遍主義の読みは、構造に還元されるようなひとつではないことを知る。その時代にとって、依拠できる普遍主義的な再構成が問題だった。読むことは事件であり系列である。そうして、われわれの思考と場所が住処とする差異としての卑近の意味が問われたとき、方法としての「漢字論の視点」が要請されてくることになったのではあるまいか。(絶えず問題となるのは「漢字論」の言説性についてである。付け加えると、「漢字論」と「漢字」は共通な対象をもたない。例えば宣長の言説性。「漢字論」が宣長を扱うことになるのは彼の構築的二重性によるー最後まで彼が留まり続ける漢字世界の内部で漢字の裏側にある不在を読むことによって言説を作り出す。経験主義者である近代主義者の立場から、ポストモダン的視点を先取りした不在を見ようとするとわからなくなる。わからないのは近代主義の側の問題なのだけれど)