MEMO

Discours la série l'enchaînement l’ devenir 「つねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方向の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生み出すに至るまで」ー D&G

言説と言説の間は、自立のための思想闘争がかならず存在するが、映像と音の関係ほどには互いが互いに対する独立があるというわけではないらしい。ついでに、映像と言葉の関係については、それは沈黙が非-関係をもつことによって溶け合う関係が成り立つようにある、と、そうとしか言いようがない所があると時々おもう

Oui, l’image est bonheur

mais près d’elle le néant séjourne

ーMaurice Blanchot

「確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのそばには無が宿っている。」ブランショ

‪パウンドの詩を引くゴダール映画史において問題となっていたのは、映画の死についてである。映画が死んだ後自分がどこに行くのかが物語られなければ映画は安心できないだろうと。恐らく映画は形而上学へ行く。映画に宿っている20世紀も、悲惨な戦争をもたらした国家を批判する究極の主体となることによって‬ 「葬られもせずに、広大な大地に打ち捨てられた、われわれの友エルペーノール。キルケーの館に、われわれが残してきた遺骸」(パウンド)

‪Les hétérotopies inquiètent, sans doute parce qu’elles minent secrètement le langage, parce qu’elles ‬empéchent de nommer ceci et cela, parce qu’elles brisent les noms communs ou les enchevêtrent, parce qu’elles ruinent d’avance la < syntaxe>, et pas seulement celle qui construit les phrases, ー celle moins manifeste qui fait < tenir ensemble > ( à côté et en face les uns des autres) les mots et les choses. ‬ ‪ーFoucault ‬

‪「混在郷は不安を与えずにはおかない。むろん、それがひそかに言語(ランガージュ)を掘り崩し、これ<と>あれを名づけることを妨げ、共通の名を砕き、もしくはもつれさせ、あらかじめ「統辞法」を崩壊させてしまうからだ。断っておくが、「統辞法」というのは、たんに文を構成する統辞法のことばかりではないー語と物とを「ともにささえる」(ならび向きあわせる)、それほど明確でない統辞法‬ ‪をも含んでいる。」(渡辺訳)‬

日本のマスコミは関心が高いようだけど、イギリスとアイルランドは、多分ほかのヨーロッパ諸国もそうだとおもうが、昔から、アメリカのカネまみれの中間選挙にうんざりしてあんまり関心がない。しかしSNSの世の中である。ネットというのは数はすごくても新聞にあるような論争の場がないとおもっていたが、「SNSは政権を批判する野党に有利な道具」という。 “米政治、マネー vs. SNS 民主の拡散力、共和の5倍” (日経新聞)

‪So why, pray, sign anything as long as every word, letter, penstroke, paperspace is a perfect signature of its own ? ( Joyce , Finnegans Wake) ‬ こうして一つ一つの単語、文字、筆の動き、紙の余白それ自体の完璧な署名なのだからサインの必要などあろうか。(宮田恭子訳)‬

‪ ‪『フィネガンズ・ウェイク』は、文学のチャンピオン、米国知識人のベスト100の10位(上位)に必ずはいる本だ。この本は50ヶ国語を利用して英語で書かれた迷宮だと思うが、そんなことを口にしたら、大変だ、横からアメリカ人は説教してくる。それはどの国の言葉に属する言葉(ランガージュ)として初めて読める本だ。ヨーロッパ人も日本人である君も文化中心主義では読めぬと。成程、『フィネガンズ・ウェイク』は、普遍主義を住処とする米国人のナショナリズムのあり方を映し出す鏡かもしれない‬、だから無敵なんだ...

アジア的普遍性に出会えない言論界だけでなく、近代を批判的に問うことをやめた知が、日本会議に敗北してしまっていたということではないでしょうか。はっきり言わないとわからないからあえて言うのですが、自身への批判をこめて、そういうことを考えてみる必要がでてきました。

“If you mean redistributive programmes that try to redress this big imbalance in both incomes and wealth that has emerged then, yes, I think not only can it come back, it ought to come back. This extended period, which started with Reagan and Thatcher, in which a certain set of ideas about the benefits of unregulated markets took hold, in many ways it’s had a disastrous effect. “In social equality, it’s led to a weakening of labour unions, of the bargaining power of ordinary workers, the rise of an oligarchic class almost everywhere that then exerts undue political power. In terms of the role of finance, if there’s anything we learned from the financial crisis it’s that you’ve got to regulate the sector like hell because they’ll make everyone else pay. That whole ideology became very deeply embedded within the Eurozone, the austerity that Germany imposed on southern Europe has been disastrous.” ー Francis Fukuyama interview: “Socialism ought to come back”

昨夜はいつも行くワイワイ二次会の店の興味津々の二十代店員さんたちから、「皆さん今日は何の議論なされるんですか?」といわれた。思想の歴史を勉強している仲間たちと説明してはいる。きょうはどう返事しようかとちょっと考えた。とくに決まっているわけではないですがね、議論がゆるされない無誤謬の神話というか、朱子形而上学に読み取れる近代の何でもかんでも説明し尽くす「トータル・セオリー」について議論するでしょう、とは答えなかったけど

パリの‪ファシズムと闘う68年は、戦争を齎す国家を批判的に相対化する究極の主体を考えようとしたのではなかったか。精神分析は解体される。フロイトのモーゼは反時代的に、反ナショナリズムの言説コスモポリタンになったり反ナチスの言説ユダヤになった。そうして差異を作り無意識は生産的である。パリの68年は構造主義を批判した。再びワイマール憲法の無意識という構造主義に絡みとられたりはしないだろう。構造主義に留まっていたら近代の問題を批判的に考えることができない。私の誤解でないとしたら、言説・明治維新150年を解体することもなく、敗北させられた日本会議憲法の無意識にやっつてもらおうとする68年ならば、なんか全然違ってきちゃったみたいだけど、どうなの?