地球の民のデモクラシー

‪地球の民のデモクラシー

アイルランドの民はアイルランド排除によって成り立つ国家のなかで自分たちを外国人のように歩かなければならない。イギリスがアイルランドにやったことは、ヨーロッパがイスラムにやったことと同じであると考えてみる。国家の近代はイスラム排除によって成り立っているので、イスラムは、明治の近代が伝統をゼロにしてはじめたようには、西欧化を全面的に受け入れることが難しい。そこで起きてくる国家を要求する宗教ナショナリズムばかりに目を奪われて、西欧化の意味を問うために、あえて、「政教分離」問題だけでなく「政教一致」問題として構成したみようとした議論をみようとしないとしたら、中心に対して周辺から行う異議申し立ての意味をとらえたことにはならない。どこの地域紛争でも地球デモクラシーをもっている。それによって、西欧近代の普遍主義が問われている。地域の現場から、普遍主義の再構成が求められる。制作学的視点にたてば、地球の民のデモクラシーという名が立つときそれは国家のあり方を決める。ただし制作学は一国主義的視点の国家を対象とする必要がない。地球の民のデモクラシーの時代においては、対抗メディアとしてのネットは新しい人権だろう。地球の民のデモクラシーの中心に信無くば民立たずの原則がある。危険な原発の問題は信の問題だとおもう。グローバル資本主義に抵抗する反緊縮の声は地球の民のデモクラシーにほかならない。国家と対等な国内亡命の場所も保障されなければならない。アイルランドが経験した裁判なき拘束制度がアジアの少数民族に対して行われているという報道を読むとき、地球の民のデモクラシーが囲いこまれている、ここをおさえておかなければ問題がみえてこないという気がする。‬ 。‬