水戸学後期

‪『アンチ・オイディプス』は中華文明の文脈で読む解く試みは既に京都のほうでそういうのがあるらしいですね。『ミルプラトー』で発展できる部分があるかもしれません。『易経』の存在はジョン・ケージの本を読んではじめて知ったのだけれど、近代の成り立ちを読む思想史にとって重要な意義をもっていたことを知りつつあります。自らを「中国」と呼ぶようになった水戸学後期の「聖人、神道を以て教を説く」(『易経』)を「昔、天祖神道を以って教を説く」(「天を祖とし」た天祖神(あまつみおやのかみ)」と読みかえていくのは、まさに、<何も変えるな!すべてが違ったものとなるように>を実現しているようです。これは19世紀に顕著な知、エクリチュールの場と声の場に成り立つ表(タブー)」の知といえるでしょう。これを、朱子学的鬼神論の影響のもとでの制作学、国学、神話的神学の流れから作られてきた系列(セリー)を為す言説としてとらえてみて、その後の明治維新を形作る国家祭祀の言説を形成する系列を観察できるのは、『論語塾』で行われている子安氏の思想史の講座だけで、いつでもだれでも参加できます。「中国」を近世後期の日本が名乗ること、こういう事がどうして起きてくるのかは、1500年代に遡って考えてみる必要がありそうです。インチキでない真の「世界史」の知識が求められます