言語的存在としての私は何であるかと問う形而上学の問い

‪言語的存在としての私は何であるかと問う形而上学の問いは、言語(ランガージュ)の不条理が先行する。国家は自己と無関係に独立している物を自己の部分的要素として囲い込んでしまう。他方で、理念的な都市に定位する言語の何処にも属する自立的なあり方と関係をもつ。言語的存在に、ヨーロッパ普遍主義におけるとか国家と都市の複合的線が成り立つ‬。抽象的線というのは、外部から言語的存在に与えられる線で、音楽とかエクリチュールのことだが、複合的線とは他の場所からやってくる。抽象的線は、要素間の結びつきを解くと同時に複合的線を裏切る。たしかに、現在、脱近代としてのアジア的普遍性に抽象的線ー近世が読む四書五経からの感化の大きな運動ーが存在しているのである。