京都の僧侶はシニフィエを固定するが専制君主シニフィアンを提供する。本にかわるものは領土の始原的なものと口述的なもの。唯一の本、宇宙としての本は存在しない(宇宙生成論の解釈が書かれていても)。他方で、町民にとって、宇宙第一の書とは何なのかな?絶対的天が顔を背けるときは、仰ぎ見るひとも顔を背けていたときだってあるだろう。本の中の究極のシニフィアンを何も変えずに受け取ってしまうのは、この裏切りの身振りにおいてではなかったか。(その結果すべてが変わる。) 顔は裏切り性をもつことによって、信の理念的の成り立ちがある、と、かんがえてみようか...こういうことも武士が天皇を京都のなかに隔離していたことによるのだとおもう。古代的である権門体制の復活を防いでいたのである