ゴダール論

ゴダール「あなたがたは映画作家であるよりは作家なんだが、それでも、映画作家と対等に映画をつくることに成功した。しかも、映画の世界から締め出されていた。あなたがたはわれわれが映画を信じるのを助けてくれたんだけど」‬

‪デュラス「書くことの原則となっていることのなかには、一方ではあなたの心をひきつけ、もう一方では、あなたをたえがたくさせて逃げ出させるなにかがあるの。あなたは書かれたものを前にして、前にして、もちこたえられなくなるわけよ」‬

‪(1987年のテレビ対談より)‬

デカルトのコギトは何か簡単ではないが 、エクリチュールならば、われ(エクリチュール)は考えるゆえにわれ(エクリチュール)は存在する。そう考えてみたらどんなことがいえるか?われ(映画)は見るゆえにわれ(映画)は存在する、video ergo sum”、とはなにか?作家デュラスを前にゴダールがおそらく言いたいことは、エクリチュールは映画をもつことによって、つまり作家は映画をもつことによって、外部から、言語に変数Xを介入させようとする、このことである。ここで存在の証明が成り立っている。批評家たちの間に映画とは何かを問う映画のディスクールdiscours(言説)が存在するから、はじめて映画が存在する。哲学者の間にコギトのディスクールが存在するからコギトが存在するように。批評を書く書き手たちの議論のなかに映画にしか存在しないというとき、ここで言われる「存在」に統一性はない。存在概念は他者に向かって開かれている、外の世界に投射されているというのである。‬

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