MEMO

‪‪「英離脱、なお険しい道」(朝日新聞)と伝えてくるけどね、険しくない道はない。物事はコインのように表と裏があるから、道も両方を見ないと。私は英離脱に反対だが、同時に、喋る内容は別として、今迄喋らなかった人たちが喋りはじめたという動きを私は見ている。‬嫌なことに、イラク戦争のブレア体制のときはブレアひとりが喋っていたに等しいではなかったか。現在、最早ブレアその人の影響力はないが、自由に喋ることを許さないその体制を終わらせようとしているようにみえるのだけれどね。他方で、英離脱の一国主義の視点がEUの普遍主義の再構築を難しくしていることもまた事実‬なのであるが

「至上なものは卑近なものにある」は言語論である。言語の言説があるから言語が存在する

十代のとき初めて連れて行ってもらったコンサートは、場所を覚えていないが、小澤征爾新日本フィルを振った、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスだった

「トリクルダウン効果により、経済成長の利益は自動的に社会の隅々まで行き渡るという前提は、経済理論・歴史経験に反している」(スティグリッツ) Voici à quoi conduit l'idéologie des premiers de cordée et des rémunérations sans limite... Et si le gouvernement se souciait enfin de justice fiscale, en revenant sur ses mesures ISF/flat tax? ーThomas Piketty

呼吸と血圧と温度と湿気が人の環境である。ホー、フクロウ猫的似非養生訓であるけれど、対応づけると、呼吸は12世紀、17世紀と18世紀の漢字、血圧は英語(ジョイスの?)、温度はフランス語(ゴダールの?)、湿気は絵素。実は呼吸が一番できていないこの身体と思考は、広がりと遠さはあるが厚さがないニャ

沈黙に沈黙を重ねても、思考し得ぬものと出会えないままだーそれはなぜか?都合よく、沈黙は論理しか生まないからだ。かえって、フッサールのような思考の明確化の極限の方向に、思考し得ぬものが、詩人アルトーの如き直接行動が立ち現れた、とフーコは分析した。つまり脱出させる力は、言葉にありと。 かえって、フッサールのような思考の明確化の極限の方向に、詩人アルトーの如き思考し得ぬ直接行動が立ち現れた、つまり脱出させる力は言葉にあり。と、このフーコの説得は意外に、素朴な毛沢東弁証法の世界だ。構造改革に腐心する新左翼ネオリベ的転向の狭い世界を嘲笑う、そんな黒い破壊力がある 弁証法の息吹、思考可能なものと思考し得ぬもの。フッサールの思考の明確化の極限の方向に、詩人アルトーの思考し得ぬ器官なき身体が立ち現れた。脱出させる力は言葉にありだ。このフーコの分析からは、かのジョイスゴダールを一望できる。Grammatical but Unacceptable

アントン・アルトーを称える アントン・アルトーといえば、ゲイの反体制の詩人。ユダヤ人でしたから、象徴的にいえば、いま話題の例の、ファシズムを苛立たせる「退廃芸術」の範疇でした。現在最も注目されている詩人であります。例外は、アイルランドぐらいですか。愚かにも、かれを単なる狂人にしてしまった昔のフランスの精神医学の役割を演じているつもりでもないのでしょうがね。さてメキシコのへ旅したアルト―のことはよく知られていますが、かれのアイルランドの旅は、アイリッシュすら知らないマイナーな歴史に属します。1930年代にダブリンに来たときは、超有名人のかれは迫害というよりは全く無視されてしまいました。これに関して、私が交流したアイルランドの芸術家たちは、二週間彷徨したアルトーからなにも学ぶことも影響を受けることもなかった自分達の芸術の歴史を素直に恥じていました。ちなみに、ダブリンというところは、他のヨーロッパの都市と比べてゲイの数が一番多く、他の都市と比べて一番抑圧されているところであります。最近のオスカー・ワイルドの伝記作家ですら、不当にも’危険人物dangerous person’と噂されてしまいます。歴史に鑑みると、こうした事情は、ビクトリア帝国時代にイギリスが持ち込んだ差別が原因といえます。そのイギリスといえば、現在そんな差別から最も解放されている国となっているのですがね。アイルランドのような反イギリス的な国の人々がかえって、嘗ての大英帝国の死んだ道徳観に規定されているのは、皮肉な事と思いませんか。これは、ナショナリズムの根底に「敵」の道徳がある、という実に厄介な問題です。ミルトン的な、いわゆるステレオタイプとしてのイギリス人特有の愛国的潔癖の感覚が19世紀に、植民地であったアイルランドの人々に影響をあたえた二項対抗的な現象として説明できます。(難しいですか?分かり易く説明してみますと、敵の反対の方へ行ってきたはずなのに、気がついたら、敵の側にいたという、なんともメビウスの輪的な、あるいは「鉄道員」のバスターキートン的なことが起きてしまうのですね)。ちなみに、滞在中に、ヨーロパ司法裁判所が、(事実上空文化してはいましたが)、ゲイを罰する法律をはっきりと違憲としました。最後に、ポール・ヴィリリオが興味深いことを言っていますからここでちょっと紹介しておきます。ファシズムはあくまでもハリウッドと張り合うかたちで生きられた、というのです。たとえば、「退廃芸術」として烙印された作品群に漂うあの詩的な現実逃避感は、やはり私の知る限りでは、亡命ユダヤ人たちの持ち味です。ジョイスが描く「ブルーム」像がそうなんですね。現実逃避感は、ほかでもないナチスの、空白を抱えたアイデンティティーに、影響を与えたという可能性も考えてみる必要があります。これについて、遥かな説得力をもって、ロンドンのICAにきたジジェクが公衆に喋っていました。「サウンド・オフ・ミュージック」を注意深く見よ!あの映画に描かれた<煙草>とか<制服>のフェチの都会感覚は、ユダヤ人起源ではないか、というのです。反発を招く危うい問題提起ではありますが、事柄の本質をついているとおもって話を聞いていました。一方映画の中ではユダヤ人の方はドイツ人みたいに素朴な農民な姿をしているではないか?UNBELIEVABLE信じられない!!(かれの口癖です。)これが、世にも奇妙な、求め合う「敵」同士の相互依存関係なんです。アイデンティティーは他のアイデンティティーと常に出会うのです。とはいえ、ナチスの場合、あまりにも大きな犠牲をともないました…

「徴用」をさも「自由契約によって日本で働いただけだ」とするような安倍政権の主張は、歴史修正主義ではないか • 戦時中の朝鮮人の動員に詳しい外村大・東京大学大学院教授は、著書『朝鮮人強制連行』でこのように指摘している。 「徴用実施以前において朝鮮総督府内務省、雇用企業の関係者自身が「強制的」「拉致同然」と言うような要員確保は行われていた。また労務動員実施の初期の段階では、経済的な理由から離村を希望していた朝鮮人が日本内地にやって来たことは事実であるが、これも日本政府の国策が背景にあること、職場の移動を禁止されていたこと、就労期間延長が強いられ、戦争末期まで炭鉱等での労働を続けていた場合には徴用された扱いとなっていたという事情がある。これらの点から、一九三九〜一九四五年度の労務動員計画・国民動員計画によって日本内地の事業場に配置された朝鮮人のすべてが、なんらかの意味で強制力を持つ日本国家の政策的関与のもとで動員されたと言うべきである。」

「お前は非国民だ」と指さされたらもうおしまいだ、どこにも生きていくことができなくなる。と、「はだしのゲン」では、「戦争に反対している人は国に逆らうこわい非国民だ。付き合うのをやめましょう」と街頭で喋っている人々に<光>があてられている一方で、非難されている人間は<闇>の中におかれている。手前勝手な普遍的な?正義を喋る<光>の領域に対して、分裂しなければもうやっていけなくなるのだという人間の経験知としての<闇>が侵入し広がっていくチャンスがあるのか?「はだしのゲン」を読むとき、ハラハラしながらこのことを考えたものだ。中沢啓二の強いコントラストの絵は、アムステルダムレンブラントの残したスケッチをみたときおもいだしたのである。レンブラントのあのスケッチたちは光と闇との対決... やはりゴダールレンブラントこそドキュメンタリーを確立した最も大切な画家とみなしているのではないだろうか。下の編集は、過去の作り物の映画に描かれた収容所ユダヤ人たちの演奏の一場面に、レンブラントがスケッチした自画像を重ね合わせている。これに関して、記録マニアのナチスならば必ず撮影していたはずだといわれるが、現在まだ公に出てこないガス室の中の地獄を記録した決定的な映像について、ゴダールと「ショアー」の監督の間に激しい論争が起きた。証拠の映像が不在である以上収容所は無かったと極右が主張する歴史修正主義に対しては、厳密な証言(言葉)から真実を再現すべきだとワイズマンはいう。ゴダールの方は、利用できる映像の編集によって代理させること(substitution)が可能で過去に介入すべきだと主張した。「映画史」で示された下の編集はその一例。ワイズマンの主張のほうが説得力があるが、問題は、現在そういう映像が出てきてもそれを見た極右が「それがどうした」と言う可能性がある恐ろしい事態になっていることだ、日本の極右の場合にもいえる事だが。人間性の崩壊に関する危機感がゴダールの側にある

温暖化など地球環境破壊から生じた「自然災害」に対する損害についても各国はそれぞれの生産量に応じて賠償しなければならないとする見方もあるように、この時代は地球の人類的視点で考えていく時代ではないか。CNN記者は、移動中の移民を「侵略」と呼ぶトランプ大統領を問いただしたことが話題となっているが、米国は世界の総生産量のうち二十数パーセントを占めているというなら、それに釣り合う世界の雇用に責任をもつべきだとおもった。地域の人々の生存権を確保しながら、理念をもつことは意味がある。日本も例外ではあり得ない。恐らく「何とかファースト」の”みんな”にもどることはできないしその必要もないと考えた