ポストモダンの多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのか?

‪問題提起; ポストモダン多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのだろうか?

• 英国のヒューマニズム批判の保守派論客だったけど、啓蒙主義の近代の無神論一神教を否認するが、自覚なく一神教的な考え方ーこのとき自らの一神教的考え方が宗教から独立しているとするーをもっているというんだね。どいうことなのかな?ここで歴史のフラッシュバック(どうか大まかな整理を許していただきたい。)多神教のローマに一神教が成立した後に、その一神教の偶像破壊が起きたときに、近代が始まるとされる。この後に、人間性と両立しないような、台頭してきた極度に潔癖な物の見方のもとに、自由な表現の抑圧が起きた。他方で、一神教の知的影響から、スピノザのような内在性の柔軟な思考の哲学、多元主義が生まれてきたのであった。(彼にとってのラテン語は、東アジア漢字文化圏の漢字エクリチュールと等価だったのか、これは到底わたしの力を超える問題だが、パロール的言語では考えることができないことがエクリチュールは可能にしてくれたかもしれないと想像している。)ポストモダン多神教の時代に、一神教のあり方を考えることにどんな意味があるのかという問いに戻ると、近代日本において公の問題がある。一神教は公(=国家)を超える天の存在と結びついていた。そこに形而上学的な考え方が成り立っている(仁斎の宇宙第一の書や清沢の親鸞の読みとか。)この理解からつぎのことがみえてくる。近代日本の問題は、国家を公と教える『教育勅語』がでてきてしまったことに尽きる。子安氏の反明治維新はこのテーマをもっているということを少しずつ学んでいる。かつての一神教に戻ることも形而上学に戻ることは、20世紀の二度の世界大戦をもたらした国家に戻ることと同じくらい無理なことであろう。しかし、言語的存在としての人間にとって世界はどんな意味をもっているのかという問いは意味をもっている。ポストモダンの時代から、反時代的な形而上学の場所をもつことによって、多様体多元主義が成り立つかを問うことがはじまったと考えているのだけれど‬