ポストモダンの時代に一神教を考える意味はなにか? No.3

ポストモダンの時代に一神教を考える意味はなにか? No.3

『弁名』の荻生徂徠の一文を読むと、仁斎論が確立した物の見方のなかでそれとは異なる物の見方をしているのが理解できます。天から人間の側に奪われた「心」を天にかえす視点のことは子安先生が強調する点で、一神教的な考え方ではないかといわれます。江戸思想に一神論があったのですね。キリスト教一神教は重要な意義をもったことは疑うことができませんが、思想史的にいえば、明治以降にもったほどの思想的な影響力があったのかどうかはわかりません。『弁名』の一神論は後期水戸学の国家論に思想的影響をもちました。それは、ヘーゲルの神=実体を精神に基づかせようとするようなキリスト教的一神論とどこが違うのでしょうか。わたしに明確な答えはありませんが、一神論というのはヘーゲルの議論に顕著な強い決定論の思想のことを思い浮かべるのですね。それにたいして、『弁名』の一神論の宇宙論に対する思想は、制作される先行するものの系列をいう差異の言説をもつことによって、常に他の道へ行く可能性を含んだ弱い決定論が成立しているようにみえるのですね。ここが、ポストモダンの時代に一神教を考えることの意味はなにかを考える上で大変重要だと思っています。