『アンチ・オイディプス』のスピノザ論

『アンチ・オイディプス』のスピノザ論を読むまで身体は存在しなかった。身体の言説が存在するから身体が存在することになった。属性(身体)は実体=本質を構成しても、属性(身体)は本質ではないという。神=実体=本質は内部化できない(主体の内部に精神化できない。) では神と人々との関係は成り立たないのか?成り立つなら如何に?神と人々との関係は身体が媒介する。身体は本質ではなかった、それゆえに、その身体の言説はいつでも政治的になり得る。身体が存在するから身体が存在するのではない。オイディプス王の死体が存在するから王の死体が存在するということではない。身体の言説が存在するから身体が存在する。王の死体の場合も同様である。神を天に帰した王たちの死体によって再構成するときに政治的にならざるを得ない言説が始まるのか?