MEMO

東京オリンピック」はいらない。「固有の領土」もいらない。「大阪万博」もいらない

マルクスの人類史的視点から語る視点を、アリストテレスに遡る共同体の倫理学に置き換えることの問題は何か?人類史の視点がなければ、国家を批判的に相対化する究極の主体の形成を考えられるか?西欧における国家の言説も、国家の固有性を語る言説も解体することなく、国家祭祀の問題を見逃して、またアジアの「人義の自由」を「世界史」の構造に還元したりしてきただけだ‬

インタビューを受けたベルトリッチ監督は、アイルランドの裏切り者を描く小説から大きなインスピレーションを受けたというようなことを言ったとき、スコットランド批評家から、ゴダールを裏切ったあなたはあなたの映画のなかで彼を惨たらしく殺したのですねと非難しはじめた。スコットランドは批評精神がある

ペンローズが階段から駆け下りる。と、ホーキングと終着駅に来た列車の矢が見える。梨の宇宙。映画が物語る発見の時代!「もしアインシュタインが正しければ(どういう見方が成り立つか)」とホーキングとペンローズが問うた時代、何とか彼らの知を共有しようとしている時代に生まれてきてよかったと思う‬

‪言語は思考を規定する。奪われているのは、所有化できない水へのアクセスだけか、言葉に定位する思考のあり方もではないか。問題は、日本語といわれるものが、安倍政権の<ポピュリスト的>「これしかない」と押し進めていく全体体制に対する抵抗を為す言語として適切なあり方をしているかという点である‬。こちらに一行、あちらに五行と書きつけながら、この時代において疎外させてくる原因がわかってきたようにおもう

す 若者「お願いです、どうか、政治に関心をもたせて!」 政治「断ります。関心をもたせないことが政治にとって大成功なのですから。戦争も水道のことも若者には一切関係ありません」

‪「極右翼」といってもだね、要注意。戦後ヨーロッパの戦争責任を問うた「極右翼」と、戦後日本の戦争責任を問わない「極右翼」とでは、内容は同じではないはずなんだ。翻訳される言葉を考えるときズレを考えることがとっても大切。議論しなければいけない。「ファシズム」の語も同様の問題がある。「ファシズム」を問題にするとき、ナチスの「ファシズム」から言うのだけれど、そうしてヨーロッパにフォーカスして純粋な形を考えていけばいくほど、日本にそのような純粋なファシズムが無かったことになってしまう。つまり日本近代の問題としてある天皇ファシズムの問題を見逃してしまうことになる。実際に見逃されてきた。この時代は特にね、そういうことをしっかり捉えて議論できる劇団に期待しているよ‬ ‪

強力な共和主義の思想を自らの手で作ることをしない民は、いつまでも、大嘗祭元号教育勅語の漢文に脅かされている。近代ヨーロッパ語は考える契機であるが、思想を自分たちのものにするためには、国体的なあり方を批判的に考えた民権論の漢文の助けが必要かもしれない。このことは、12月の講座「反明治維新」で検討することになっている

西欧とアジア 映画のなかでしか見たことがないけれど、ニューヨークの自由の女神像はどこにも属するがどこの部分とならないものの象徴。最近床屋さんで教えてもらって知ったのだが、自由が丘駅前の広場にも、ひっそり立っている自由の女神像があった。自由が丘も戦災で荒廃したが敗戦後に建てられたという。さて、常のこととして近代主義者が一つにしてしまうように、ニューヨークの自由の女神像が本来的なものであり、自由が丘駅前の女神像が非本来的なものであるというふうに考える必要がないだろう。先ず、アジアの端っこに立つ女神像をよく見ること、そのことによって、西欧の端っこにある自由の女神像がわかってくることだってあるさ。理解が要請される。

中沢新一の「チベットモーツァルト」では、外部から、それまで自己が依拠していた知の枠組みを批判的に相対化していたのはよかったのですがね、そこに、ポストモダンの時代の多神教への文化的関心のことは書いてあるが、しかしポストモダンの時代に一神教を考える政治的意味のことは書いていませんでした。歴史をみると、近代国家は一神教なくして成立できません。ジョイス一神教を文学的に創造したところがあります。アジアもは一神教なくして成立できなかったその例外ではないのです。一神教は宗教ナショナリズムの19世紀の国家神道、そして20世紀の毛沢東主義に観察できるのです。ここで毛沢東主義はどうして一神教なのか?そもそも近代の一神教とは何か?明らかにしなければなりませんが、チベット仏教に対する政治的抑圧は、文化大革命に現れた毛沢東主義という一神教的あり方を露わにしてしまったのではないかと考えはじめています。チベット問題を考えることは、ウイグル問題と同様に、文化大革命儒教を消滅させたことの意味を考えることでもあります。

垂直的理念化の方向 The universal must remain open, its differences and potentiallies must remain so; other wise we are forever trapped in the present in the future...

‪Ce n’est pas l’homme de l’homme, c’est l‘homme de la nature. ‬ ‪( Émile Rousseau)‬ ‪「彼は人間による人間ではない、自然による人間なのだ。」‬ ‪ここで「homme naturel 自然人」には誇張がある。ルソーは第三編でこう言う。Il y a bien de la différence entre l’homme naturel vivant dans l’êtat de nature, et l’homme naturel vivant dans l’êtat de société. Émile n’est pas un sauvage à reléguer dans les déserts, c’est un sauvage fait pour habiter les villes‬

解釈する神学的なものはアルトーに拒まれたとデリダは言う。エジプト象形文字や古代漢文を註釈する近代にだけでなく、死に切った言語にも怒った、アルトーの身体は、死に切っているテクストを要求した。肉体は、国家の身体(「国体」の概念)と違って、本質と無関係に、死を観念化する世界思想となるために!