「近代の超克」とは何だったのか?

名づけられることよって制作が可能となる。立憲民主主義の名は時代の要請だったから反復とはいわれなかった。新しく何かを制作するのだろうと期待があった。だがその伊勢神宮参拝を見るとグロテスクな反復といわれても仕方ないだろう。戦前のファシズムと対決できた民主主義は本当にあったのだろうか?と考えさせる。政府が作った憲法のもとで、社会主義者達が殺戮され、国家統制が行う戦争のための大正デモクラシーに拍手喝采していたのは、民主主義と考えて戦後民主主義が自らを見いだすファシズムである。天皇に政治権力を集中させた明治維新の帰結として、ファシズムの道しかなかったのか。だけれどやはり抵抗もあったのだ。抵抗は僅かに、天皇ファシズムが覆うまえの隙間にあった。それは民主主義の思想ではなく、革命の思想と呼ぶべきものだったのだろう。左翼知識人によって発言された近代の超克は何を語ったのかを改めて考える。子安氏の発言を参考にして、わたしの理解が間違えていなければ、こういうことではないだろうかとおもう。<一>に包摂してくる帝国主義(今日ならば帝国)に抵抗するためには<多>であることが要請される。だが<一>的多の原理では<一>に過ぎない。再びそれは帝国主義(今日ならば帝国)である。<多>は史上なものと卑近なものとの間で成り立つ<多>でなければならない。至上なものと卑近なものの両者が互いに補い合うこと、ヨーロッパに最高なものがあるが人類的にそれを史上なものにするためにアジアがヨーロッパを正す卑近なものとして存在しなければいけない(つまり日本は植民地を持たないこと。) 近代の超克は、だけれどあっという間に、帝国主義が住処とする天皇ファシズムの教説に置き換えられてしまった。近代の超克は近代の超克であるためには、ヨーロッパ知のなかに組み込まれた「世界史」を取り出して、それまで語られることがなかった人類の視点に立った本当の意味での世界史の言説を構築できるかどうかにかかっていたが、問題は、思想(近代の超克)が自らを語るために依拠できる思想的な自立言語をもっていなかったこと、日本ロマン主義のヨーロッパに依存した言葉で語っていたことの限界にあったようにおもわれる。それは今日の問題ではないだろうかと考えてしまう。中江兆民の思想的言語を読むとき、「世界史」が何も制作せずにその名が無思想に反復するだけになっている思想の問題を苦々しく考えることになった。