ポストモダンの時代にアウシュビッツの意味をどう考えるのか

ポストモダンの時代にアウシュビッツの意味をどう考えるのか

日本のデリダ系の哲学者は原発や沖縄の問題、靖国の問題について積極的に発言する。勿論そのこと自体は評価されるべきこと。だが、哲学を信用していないわけではないだろうが、翻訳言語で考えることの限界もあるのかもしれない、哲学者としてどう考えるのかを語ることは無いようにみえる。比べると、極右翼が掻き消そうとするアウシュビッツの問題にたいして、デリダはそれを哲学者としてどのように考えるのかを明らかにしようとしていた。デリダは生と死をデカルト心身二元論によって「灰の火」とする。ここから、脱構築的に、説話的な語り口で、日常の卑近にある「灰の火」は生と死である。朱子の鬼神を陰陽ニ気の霊とする議論とパラレルであるとわたしは考えてみたい。そう考えるとどういうことが言えるか?デリダの場合は、近代の死を忘却する歴史修正主義の言説に、批判的に介入する反時代的な位置の重要性を書いたと言うことはできないだろうか。『灰の火』は30年前に読んでulysses gramophoneの読みを可能にしてくれるその神秘主義について行けなくなって放りだしたのであったが、『朱子語類』の「鬼神」を読む講座のおかげで、ポストモダンの時代にアウシュビッツの意味をどう考えるのか、デリダの「灰の火」の意味をリアルに問う問題提起がやっとわかってきたように思う

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