MEMO

思想の欠如。米中の時代に安倍政権に依存しきった「敗北日本」を含んだ人間世界の全体性を見渡す視点がもっと必要である。自身への反省をこめて。

(承前)日本の伝統文化については知らないし、むしろイヤだったのですが、たまたま文楽を見る機会があってショックを受けました。太夫の語りと太棹の三味線の異常なまでの力強さと表出力に圧倒されました。その時から日本の伝統が気になりだしました。二十代の終わりだったでしょうか。武満

‪重要なのは 独裁者の思い浮かべることや、物資的な切迫性ではなく、より高い真理ではないでしょうか。手の届くところにある、人間の高みにあるその真理のことですが。多分これを自分たちのものにするとき、安倍政権の自民党的なものがほんとうに終わるのだと思います。芸術と宗教と学が定位する精神の自由が現れるのは、米中の時代に安倍政権に依存しきった「敗北日本」を含んだ人間世界の全体性を見渡す視点からではないでしょうか。さて現在わたしが心配しているのは、現在まだそういう段階ではないが、これから先のことについてです。これから日本会議が構想する、解釈改憲的に再び新しい形で成立した国家神道を前提にした、米中から自由な「天皇教的国家」(講座『明治維新の近代』、”「国家神道」を問うこと“で問題提起された概念)が覆すことができない絶対権威となったらどういうことが起きるのだろうか、と。暴力というのは、言論によっては覆すことができない絶対権威にたいして正当化されるように感じられるのです。言論なき思想は、(思想から自由な)純粋な暴力とともに、限界なく広がっていきます。これはファシズムにほかなりません。多分この問題は敗北日本の思想問題として芸術と宗教と学にとって精神の自由の条件を考えることであると思います。‬

「未来の他者と過去の他者、中間における場の時間」というようなテーマで書く\描くことができないだろうかと考えてはいるのだけれど。未来の他者と過去の他者の中間に存在することは何か?そこで、無限の言語化できない4つの領域(数えること、言説的に持続しないこと、距離をもつこと、根をもつこと)は、有限の言語化できる4つの領域(解釈すること、統合されないこと、言うことによって行うこと、依拠すること)をもつことによって、(「敗北日本」を含んだ)人間世界の全体性を見渡す視点が成り立つと思う

‪‪異文化とワイワイガヤガヤできることはー外からきた人たちとウヨウヨウロウロすることも含めてーこの時代の権利と思います。これに対して不寛容なものは、神が成り立つためには純粋なわれわれが必要だとした上で、この原理に例外はないとする、ナショナリズムの口調で攻撃してきます。権利のない社会に反対!‬ ‪

プルーストのよい読者ではありませんので、彼が小説を書きたいのか批評を書きたかったのかについてわからないままで、だれもその正体を教えてくれないでしょうが、確かなことは、彼が書いたものを追って行くと、小説は批評にはめ込まれることはないし、批評も小説にはめ込まれるようなことがないという印象をもちます。現在と過去についても同じことが言えるでしょうか。例えば江戸博物館の展示物を見学させてくれる廊下のように、過去の全体像が現在のなかでその内部に沿って対象化されて囚われているのをみると悲しくて涙がでます。プルーストの過去は「江戸、大万歳」みたいなそういう展示物ではありえません。どの過去の部屋も現在の人間に向かって「おまえなんかくだらないんだよ」という声を絶えずもっているのですね(逃げ去る女性から聞こえてくるのかも?)。過去は飼い慣らされていないというか、危険な怪物と等価物なのですが、プルーストは知的なものを以ってそれを書いたのではないでしょうか?現在から過去に向かう逆の方向もあります。物質的な観点から言えば、現在は過去を凌駕します。量的に比較すれば、「おまえなんか何でもないんだよ」と、過去なんかなんの価値もないところを、プルーストは現在をあえて知的なものを以って構成したとおもいます。過去は現在をとらえ尽くすことができません。これからどういうことが言えるのかは、結論がないのですが...。過去が現在と対等になるのは、過去は死に切った絶対の存在になる世界思想を獲得したときではないでしょうか。マラルメの読みは大変あやしいのですけど、氷の鏡に冬の魂がうつるとき不在の白鳥の翼が現れる、高く鋭い音が反復するようなイメージをマラルメにもっています。多分白鳥の翼は、鏡のなかに魂が安らぐことを許さない、また魂のなかに鏡が置かれることを許さないのでしょう。それは鏡と魂、白鳥の翼自身を作者から逃がすプルーストに通じる(とまとめてしまっていいのだろうか?) 知的なものではないかとおもってます‬ ‪

参歳 墓場で初潮をみる 月にも髪があることを知る ー 寺山修司

「迷惑です」とか「不適切」というスピーチアクトが一番厄介で、これらは反論も受けることなく無傷のまま、広範囲に自由の領域を拘束してくる網ではないでしょうか? ‪

人間は、おたがい、死者と語らう死者なのだということを忘れる。ー ボルヘス

万葉集」は、アイルランドにきてわかるようになったというひとが結構いらっしゃるのですが、わたしだけがわかっていません(笑) 風景の切り取り方のことを言っているのでしょうね、多分、私はわかっていませんが。あのひとたちがいうそういうアイルランド的なものはいかにも19世紀的な再構成の感じがしますけどね。『日本書紀』『古事記』『万葉集』という順番で、漢字で書いた変な中国語になっていくと指摘されていることは興味あります。『源氏物語』は読めませんが、歴史と神話とは異なるというのでしょうか、『紫文要領』の宣長によると、自分の心のなかにとどめておくことができない話を語ることがはじめて成り立ちました。書き手が他の書き手に向かって漢字で書かなかった新しい経験を「物語」として分析していて、この分析もまた物語を構成するというのが面白いです。(女性たちは物語を漢字で書かなかっただけで、男性と同じ意味で漢字で読む知識人でした。) 読めないものについて何だか偉そうに語ってしまいましたが(ヤバイヤバイ)、華やか王朝文学といっても女性たちにとっては指摘される所では大変苦しい時代で、過去すらなくなる没落の危機に直面しながらも、そういうなかでも、内省的に自由に書いていく『源氏物語』の方がほんとうの意味でアイルランド的だと思いますけどね。 ‪

‪‪ご指摘されているような「立ち位置」が大変重要だと思います。その場合「日本の神」でいわれる和文エクリチュール的なものにそんなに頼って大丈夫だろうかと思いました。先週講座で先生から出た話でずっと気になっているのですけど、古代天皇は軍事力ではなく宗教によって平和的に支配したという言説が確立されているようなのですね。これによって、全く根拠もなく、古代天皇は「日本の神」と結びついた平和的なイメージをもっている可能性があります。これに関して、靖國神社の博物館に探偵しに行くとそこで展示されている万葉集の歌の存在感がすごかったのです。『日本書紀』は対外戦争に巻き込まれることを避けようとした対外戦争の存在を気づかせますし、『古事記』は統合の難しさ(対立)を隠蔽しないのですが、比べると、『万葉集』は芸術的に包摂してくる世界で、それだけに読み方によってはなんかヤバイかなと感じました。長文で恐縮ですが、和辻ファンだった死んだ父は国家総動員法の時代に青春時代を送ったわけですが、『万葉集』を講義で勉強していたというだけで母方の親戚から尊敬を受けていて、子供ながらわたしはそこにヤバイ痕跡をいつも感じていました💦