マラルメの詩

une constellation

froide d’oubli et de désuétude

pas tant

qu’elle n’énumère

sur quelque surface vacante et supérieure

le heurt successif

sidéralement

d’un compt total en formation

ー Mallarmé, Coup de dés

白鳥

LE VIERGE

ステファンヌ・マラルメ Stephane Mallarme

上田敏

純潔にして生氣せいきあり、はた美うるはしき「けふ」の日よ、

勢いきほひ猛たけき鼓翼はばたきの一搏ひとうちに碎くだき裂くべきか、

かの無慈悲なる湖水の厚氷あつごほり、

飛び去りえざりける羽影はかげの透きて見ゆるその厚氷を。

この時、白鳥は過ぎし日をおもひめぐらしぬ。

さしも榮はえ多かりしわが世のなれる果はての身は、

今こゝを脱のがれむ術すべも無し、まことの命いのちある天上のことわざを

歌はざりし咎とがめか、實みのりなき冬の日にも愁うれへは照りしかど。

かつて、みそらの榮はえを忘ばうじたる科とがによりて、

永く負されたる白妙しろたへの苦悶くもんより白鳥の

頸くびは脱のがれつべし、地、その翼はねを放はなたじ。

徒いたづらにその清き光をこゝに託たくしたる影ばかりの身よ、

已やむなくて、白眼はくがんに世を見下げたる冷ひやき夢の中なかに住ぢゆうして、

益やうも無き流竄るざんの日に白鳥はたゞ侮蔑の衣きぬを纏まとふ。

マラルメでは、氷の鏡に冬の魂がうつるとき不在の白鳥の翼が現れるのですかね、なにか高く鋭い音が反復してくるようなイメージをこの詩人にもっています。白鳥の翼は、鏡のなかに魂が安らぐことを許さないし、また魂のなかに鏡が置かれることも許さないのでしょうか。”exile”は亡命、la régionは土地と訳したほうがすきですね。亡命ではどこの土地に属するがその部分となることはないという批判をやめぬ反時代的な位置と機能が意味されていますが、亡命というのは理念的なものですから、たとえば確立した言説のなかでそれと異なる物の見方のことも「亡命」と呼べるのかを考えています。氷の忘却、鏡と魂、そして白鳥の翼自身も、逃がせとおもっています。