<半ー亡命>は思想となるか?

‪ ‪‪疎外は全体性が失われている状態であるといわれてきた。しかしそれほど単純なことではない。亡命者は困難な条件のもとに疎外されているが距離を保って全体を見渡す知識人的視点をもつ可能性のことをサイードは指摘したとわたしは理解した。この場合、距離とは、ナショナリズムを批判的に論じることを無意味とする言説形成に対する拒否であるとおもう。さて半分だけの亡命という風に形容するしかない亡命の状態もある。中間状態にあることを奪うカオスにたいする環境の反撃に通じるものがある。仮にあると考えてみると、どんなことが言えるか?21世紀における米中の時代にあらわれてきた、アメリカと中国の間の地に依ろうとする<半ー亡命>にとっての新しい経験とはなにか?如何なる条件で経験を可能にするのか。国家神道解釈改憲的復活、近代国家存立の危機を巻き返そうとする日本ナショナリズムの自らの勝利に酔う反動をどう批判していくのか。戦前の思想家たちの見方を利用することによって構成していく新しい思想から、再びアメリカと中国のあり方をとらえかえすとき、<半ー亡命>は新しいアジアの思想にすむことができるか‪という問題提起を行いたいと考える‬