近代、脱近代、ポストコロニアル

‪近代、脱近代、ポストコロニアル

‪近代、脱近代、ポストコロニアル 普遍主義に反撥する浪漫主義的文学の近代は、絵画の近代と同じように、資本主義からの独立を目指すという近代である。文学は文学のほかに立つことはない。世界からの独立は前衛精神の抵抗に極まる。文学は、資本主義の外部性を空無化することによって、資本主義の偶然性からの克服を一層わがものにする。問題は、ファシズムも空無化していくようにみえるときである。その危険に対して、マルクス主義文学批評の近代は、前衛的実験にたいして、全体性のリアリティの疎外を指示する。ポストモダン文学からみると、そんな疎外の回復を指示する近代は全体化の言説である。ポストモダンは資本主義的な断片を以て近代的なものに抵抗したところで、近代はポストモダン断片化を資本主義の擁護として告発しなければならない。ポストコロニアルがやってくる。ポストコロニアルは多様な言説であるが、文学は植民地主義が創り出した近代と近代文学の勝利の前に自らをゼロに感じる。そしてテクスト的脱近代に知的に触発されながら最終的に脱近代は共同体の声を無意味化するものとしてこれを受け入れることができないだろう。帝国の時代の文学は勉強不足でまだよくわかっていない。 (帝国の時代はもしわたしならこんな文学を書く。歴史の必然を見渡す知が”命懸けの飛躍?“的落下のあと、世界-内-存在の偶然しかない街に徘徊したが、帝国時代は、知が再び塔ー歴史の必然を見渡す世界史の構造の高みーに帰って行く時代である。見捨てられて地上界に取り残された存在が、魂によって観察されながら、卑近なものと至上なものを見る。見る行為が先行する。)