フーコは<もう一つの思想史>を書きはじめるために、<もう一つの絵画史>を書いた書き方が野心的です。ベラスケスが呼び出されました。(このあと、絵画史のなかで言及されることがない博物学のイメージです。) さて8年間いたアイルランドのような19世紀から対英闘争を展開した共和国のメインストリームの芸術がこの絵から影響を受けていることを公然と言っているのが疑問におもったものです。この絵はヴィクトリア朝大英帝国の自己イメージのあり方を与えることになりました。フェースブックのスイス人の友達などは人々の隷属状態を読み解いて、「馬鹿な連中だ」と吐き捨てました。それはわかります。結局どこから絵を解釈するかによるでしょう。再びアイルランドですが、王から独立するためにというのですかね、この部屋からいかに脱出するかという問題意識を以ってこの絵を観るのかもしれません。宇宙の秩序を震撼させる不条理の笑いをゆるさないほどに、完全な原理を以って隙間を埋め尽くすようでは外へ出ることは難しいと絵は教えているように思います。下の絵はピカソによる再構成で、見事に、宇宙の秩序を震撼させる空白としての不条理の笑いを取り戻しているのではないでしょうか。しかしこれとは反対の見方をしている可能性もあります。国家がなければ民族のアイデンティティの確立がないという見方です。その場合は画家の二つの位置に、民衆が民衆自身をみるということになります。しかしアイデンティティといっても境界というかかえって揺れて止まらないものを感じないわけにはいきません。そもそも民族とは何か?「明治維新の近代」に先行する津田左右吉・国民思想論(第一回、「民族」という始まり)のプリントをみながら色々思い返しているところです。冒頭の文はエテイエンヌ・バリバール「国民形態の創出」(1995)でした。「民族ピープルとは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのように想像の共同体である。」問題は、21世紀の新しい普遍主義を再構成できずに、「国家」が制作した「民族」(=「世界史」)を物語る言説の部屋を出ることができないでいること。東西の500年前から、ここが問われているとおもいます。
『ラス・メニーナス』はピカソによって再構成されている。幾つもの作品がある。ピカソは仮面に大きな関心をもっていて、『ラス・メニーナス』は仮面だったのではないかとする説があるほどだ。ポスト構造主義的に、何とかポストコロニアリズム的な視点で書くと、そうだと考えると、仮面『ラス・メニーナス』についてどんなことが言えるだろうか?画布の裏はその表を隠す。これと同様に、仮面『ラス・メニーナス』は王が消滅した後の自己の顔を隠していると解釈してみよう。そして絵画のなかのベラスケスは「文字で描く画家」であり、画布の裏は書かれたテクストの裏に対応するとき、仮面がわれわれの視界から妨げているのは、奥のほうでテクスト全体を宙吊りにしている空白と、テクストのどこにも属するがテクストの表の部分とならない裏である。結局、仮面は、裏と白紙のような空白を隠蔽しているといえるのではないか。仮面は声のエクリチュールである。仮面は外部から受ける損傷に対して、共同体が住処とする身体をまもっている。
avoiding eye contact 『ラス・メニーナス』 に描くー見ることの自律性(本来性)を強調する見方は、視線に晒されている眼差しーイヌ、王女、道化、侍女、画家ーが互いに似ている類似性のネットワークが気にならない。王と画家と私達の視線に晒されたモデル達はバラバラの方向を見ていただろう。中世的世界像の終わりを告げているかもしれないが、近代が期待するようには、そこに合致する共通の場がはじまったとは思われない