ピカソを読む ー challengeing the past

‪17世紀というのは、中世的世界観の終わりと近代の初め(近世)ですね、「危機の17世紀」といわれます。世界史の年表をみればわかるのですが、時代の精神は外部へ出ていくのです。外へ出て行くのは、ヨーロッパだけでなくアジアもです。17世紀が17世紀として成り立つ外部へ出る運動は、成熟の絶頂にあった芸術の力によることではないだろうかとおもっています。17世紀は、互いに戦争し合った貴族階級の没落の結果、王が貴族の媒介なく民衆と直に結びつく時代の始まりであります。重商主義は中央主権化によって成立したのです。この点について、マルクス資本論」を読む人はそういう見方をしますが、統一が分裂を解決するのかといえば、逆です。統一するから分裂が起きるのです。17世紀のあとに、18世紀の啓蒙の時代と革命の時代がきます。

‪中世的世界観の終わりとともに存在論は没落します。存在の哲学は20世紀に復活します。ここでこれについて詳しく説明できませんが、二十代の終わりの昔ですが、フーコは『ラス・メニーナス』を利用してハイデガーのテクストを読んでいるように思うことがありました。20世紀から『ラス・メニーナス』 の17世紀をどう見るかということです。現在は、ヨーロッパに限らずアジアのことも考えて、20世紀から17世紀をどう見るか、反対に、17世紀から20世紀をいかに相対化していくかという楽しみがありますね。特に後者の場合、オリエンタリズムの問題があります。

ピカソは『ラス・メニーナス』を再構成していますが、彼が向き合ったのはベラスケスだけではありません。challengeing the past という言葉に言い尽くされているように、彼は過去の巨匠達の作品を再構成していきました。これは失ったら代わりをみつけていくというモダニズムの精神による再構成といえるでしょう。ピカソの『ラス・メニーナス』では、ヨーロッパは失われて仮面とアフリカが現れてきます。フーコの『ラス・メニーナス』には、失うために失うことができるというポストモダンポスト構造主義の見方、近代を問い直す見方を見いだすことができるでしょう。