‪ 「平成の30冊」が意味するもの

17世紀以降は、アジアが存在するのはアジアが存在するからではなく、アジアは言説のなかのアジアが存在するから存在してくるようになる。支配者のヨーロッパが語るアジアは20世紀のオリエンタリズムの文献学的な知として普遍的に構成されてくる。20世紀後半のポスト構造主義が与えることになったのは、近代を問い直す視点を以って、支配される側におけるアジアの形而上学を読み解く知識革命のあり方から、アジアのわれわれがその部分となっているオリエンタリズムの視線を相対化する視点である。世界史の普遍のなかにそって語られたわれわれと言語の関係を脱構築した子安宣邦『漢字論ー不可避の他者』は大切である。なぜならそこに人間の存在の意味を問う水平的全体性の見方があるからである。ところが朝日新聞「平成の30冊」には、平成において知識人の役割を否定して転向した「世界史」の思想家の本が堂々とあるが、『漢字論』がない。驚くべきことに、サイードの本も、スピヴァーグの本も入っていない。『文化と帝国主義』は?ネグリ『帝国』は?グローバル・デモクラシーの『帝国か民主か』も無ければ、ピケティ『21世紀の資本』もない。知識人の役割をもって、確立した物の見方のなかでそれとは異なる見方を提示できた古典の価値をもっていることが重要だ。‪これ以上現状維持的な似非多様性の言説に絡みとられてはやっていけなくなると思うのだけれど、だからこそこの無力から、理念的に要請される自由の意味をあらためて考えようとするものが古典の価値ではないか。‬と思うが、そういうことはどうでもよくて、売れる本が良い本であるということに尽きるのか?‪ 「平成の30冊」が意味するものは何か。「平成の30冊」は見事に、古典の精神が消滅する平成が平成としてあった所以を証明してしまっている。のではないか。