芸術の近代を考える

アイルランドの独立に導いたヒーローたちが処刑されました植民地時代の一望監視方式監獄が博物館として保存されていまして、撮影禁止とは知らずそこで撮った写真をアイリッシュの友人に見せたら現在のわたしたち女性はまだここにいるんだと怒りはじめました。その反応にショックを受けました。それ以来ナショナリズムの問題を考えています。今日「明治維新の近代」を批判的に勉強しています。さて日本では監獄は靖國神社に対応するのかもしれないと考えてみたらどんなことが言えるでしょうか。明らかに建築は違いますが、「民族の始まり」を表象させる目的は同じではないでしょうか。「民族の始まり」とかいっても、民族の概念は国家が成立した後に出てきたものです。国家は監獄や国家祭祀の施設によって構成されるものですね。これと同時に、たんに、国家は国家が存在するから存在するのではありません。国家は国家の言説のなかに存在するから存在するのです。国家の言説は、自らの根拠を、人間が登場しない過去にまで遡るかのようですが、その連続的な遡り方を自然にやることに違和感を覚えますね。構造主義民族学に、書く言葉(文字)に優位する話し言葉(声)の存在を想定した過去がありますが、考えてみると、そのような人間が登場しない時代から現在に投射してくる連続性の表象とは一体何でしょうか。そこでわたしはロンドンのTate Modernで見たシュールレアリスムの作品のことを考えます。芸術は近代に対抗した共同体のユートピア的なあり方を示しましたが、人間が登場しない過去にまで遡ることができる別の国家を約束する点で起源の言説に絡み取られた<もう一つの近代>という構成なのですね。つまり国家が芸術に先行したということです。それに対して、大事な点ですが、ファシズムに抵抗できた表現主義のアートは起源の言説の外部にありました。どう話をまとめていいのかわからないですが、近代を問う芸術がはじめて現れてくるのは、1970年以降ではないでしょうか。この時代に人間の歴史においてアートは自身のあり方を問うことをはじめたというのがわたしの理解です。‬

f:id:owlcato:20190320100040j:plain