MEMO

ブッシュのイラク戦争を契機に、反アラブだけでなく反ユダヤの動きが世の中に広がっている。この国New Zealand の問題というよりは、イラク戦争に積極的に協力したオーストラリアの問題とみるべきだろう。オーストラリアの白豪主義を乗り越えた文化多元主義はイギリスの場合と同様に、平和時には最大の恩恵を受けるが、戦争によって回復不可能なほどの深刻な損傷を被ると言わざるを得ない。先進国だからといって、それほど単純ではないのがオーストラリアの立場だ。ここからオーストラリア論になってしまうが、政治もアイデンティティもヨーロッパ(英国)から独立したが、経済の問題がある。通貨をはじめ経済的にアメリカに事実上従属しているといわれる。もしアジアにEUのような東アジアに共同体が成立していたら(もはや挫折した構想であるが)、これと組むことになったはずであるオーストラリアはより選択のある自立の道を得ることができただろうか。そうであれば、多分彼らにとって全く関係のない遠い所で行われるアメリカの戦争にくっついていく危険は起きなかったのかもしれないなどと思う

残念ながら、私は絶対自由主義者たちと同じではありません。それというのも、人間の根源的欲求に信を置く、ある絶対自由主義的な(リベルタリアン)哲学が存在するせいです。私は権力によって位置をつきとめられたいと思いませんし、とりわけアイデンティティーを特定されるなんて真っ平御免です。 フーコ

行きつけの床屋さんの剃刀名人だけど正直今日は不安があった。ラジオから春をテーマにしたバッハから始まる音楽の抜粋がきこえてきた。ヴィバルディの春(いいね)、ベートーベンの田園交響曲(いいね)。でもなーんか、だんだん剃刀の削るジョリジョリというリズムが音楽のリズムとあってきたような?え、4曲めがあるの?剃刀もういいんじゃないのかしら、まだやるの、まさかストラヴィンスキー春の祭典とかラジオで言ってるけど。ロシアの長い冬の間眠っていた大地の下から芽が噴き出すとき、炸裂するリズムで死ぬまで踊る

嗚呼、笑いを解説することほどつまらないことはない。マルクスをどうみるかの見方ならばそれについて何とか書くことができるかもしれない。19世紀のマルクスブルジョワ的なものと共通なものをもたぬ運動のあり方を問うたから、運動でも、20世紀の被支配階級が定位するサッカーの形のように一見それほどブルジョワ的に非ずされどナショナリズムの毒に侵されているあり方に当惑している。スポーツ、スポーツ、スポーツ!そしてテレビのクイズ番組ほどナショナリズム的なものはないのであるが、そこでレーニンの代わりに答えているのはやはり毛沢東だった‬!?深読みか?くだらないと言ってしまえばくだらないかもしれないが、これはこれで、イギリスのユダヤ系知識人たちが放送原稿を書いて活躍した時代の「啓蒙」の影響のことを思う。ブルジョアに対する問いは、ヨーロッパ中心主義に対する問い、近代に対する問いをもつことになった。現代の関心といえば、司会者の横にいて葉巻を吸って沈黙しているこの人物か?68年のチェ・ゲバラを再定義してみせるマルクス主義的ポストコロニアリスムからネオリベグローバル資本主義に対する異議申し立てを理論化しサルトルを再発見できるものなのかどうか、しかしできるとしても、哲学的こだわりよりもピケティーのように貧富の格差を問題とすべきではないか?

イギリスに独自のローマ法の発展があったらしい、古代ローマ時代のことは、イギリス人がローマ人を演じるこのMonthy Pythonのコントでしか知らないが、逮捕されたBrianを名乗る男は多分現代のアイリッシュを投影しているんだろうな。現代の話だけど、アイルランド移民の子孫たちはロンドンの人口より多くて、英国に来た彼らは大抵はユダヤ人と結婚した‬、と、ロンドンのユダヤ博物館のボランティアから教えてもらった。さてMonthy PythonのBiggus Dickus を読み解くと、その背景に、はっきりとわからないが、大英帝国のときは、国家をもたぬ資本主義と同一視されたユダヤ人にたいする英国の反発があった。‪大英帝国ローマ帝国の継承と発展らしいんだけど、このこと自体が冗談だけど、コスプレ劇を見ながら、何かの排除によって成り立つ幻想が働いていることにきがつく。ちなみに、サッチャーと今日の英国のEU離脱を強硬に主張する者たちが夢みているのが大英帝国の復活であるといわれる

ダブリンの街の中心にあるTrinity College の公開講座で一年かけてルネッサンス絵画1000枚をみた。このときは、映画のナラティブの起源が五百年前にあったことをよく理解できた。もちろんナラティブの起源は遡れば、古代ギリシャの悲劇に行くつくに違いない。monty pythonは、もっとコンセプチュアルに考えるためには、ミケランジェロは「最後の審判」を描いたかと疑ってみようというのである。「最後の審判」とミケランジェロの人生とは共通のものがない。しかし全てを懐疑に委ねるのではニヒリズムに陥るので、そこで、作品は存在した、原初的テクスト(経典)が存在するように、とするのである。ここは疑わない。そうすると何が言えるのか?それ以前に存在しなかった作品をはじめて読み解く解釈が常にあり、そうして解釈のはじめと終わりを為す端を繰り返しみる五百年にわたって展開してくる絵画論の言説が存在するのである。その意味で作品は存在する。目の前の絵を指さすことはできるが、何を指示しているかはそれほど明らかではない。

笑いが思考を揺さぶる。これは‪ロゴスに基づく公開処刑がいかに困難であったかを考えさせるコントなのだろうか、われわれは自身の自然なあり方を相対化して考えるためにはなんと悍ましいものを笑うのだろうか。恐らくそれらは別々に存在していた。ある日、ロゴスは説明し尽くすときー偶然かもしれないのであるがー、目に見える処刑される身体の代わりに、目に見えない罰せられる魂が発明されることになった。排除が先行するようになる。魂は、空間的に追放された身体と違って、が、浄められなければならない時間に定位する。その始まりはいつか?古代のコスチュームが隠蔽しているが、そんなに古いことではない。近代の民族国家の成立とともに始まったのでは?原理主義の言説は近代の発明物である。と、こんなところで『監獄の誕生』のフーコの名を出すべきはないかもしれないのだけれど‬。排除された特殊から考えない普遍主義を自明視することはありえない。

漢文エクリチュールの縦書きがアジアで消滅してきた。日本の新聞と国語の教科書は最後の縦書きになるのか。縦書きは記憶を凍らせ、横書きは溶かすとしたら、横書きに抗っているのは1945年の誓いを溶かすわけにはいかないから

全部については必ずしも同意できない内容だけれどね、「眼をとじて精神の息吹をきく」と言っている表音文字のデビューを説明する語り口はすごいや。言語学者の仕事を踏襲しているので、人類が登場する前の時代のことを言及しているわけではないだろうが、面白くするためにちょっと文学的過ぎるかなと思うプレゼン。どうしても物を見なければいけないことをいう言説から、それとは異なることを言う言説への変化を指摘したほうがいい。究極は記号が依る媒体の消滅である。媒体はカメの甲羅や竹、パピルスや紙という物だった。デジタルの時代における貨幣の計算的観念化ー金属や紙を媒介にしないーに対応するのか。その意味は何か?媒体なく成り立っている観念的なものを考える時代がきたということか?はじめにロゴスありきを問うこと。ところで、余計な話だが、デリダが言っていたが、変なんだけれど、アルファベットというのは決して文として現れることはないという。「A」という文は本のなかでは決して存在しない。最初に「変だ」と思わなくなりそれが自然だと感じた人は誰だったのか?

無知と鞭 奴隷に変える 元号

国保守党は反移民と反イスラムの極右翼Ukipの影響力を利用してBrexitを推し進めてEU批判を有利に行うことができると考えた。現在は北アイルランドの極右翼DUPが合意なしEU離脱派に「鞭」を与えている。両者が行なっていることはイギリスを奴隷国家にしているではないかと非難する声がある。グローバル資本主義に対抗するEUヨーロッパの新しい普遍主義の再構成は極右翼によって悪い形にならざるを得ない...

元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえている。 「「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五)」とある。」