MEMO

近代の民主主義(「明治維新の近代」)は、平等な人々が参加する政治を、極端に孤立した思考(「王政復古」)にはめこんで、全体主義(「昭和10年ファシズム」)に陥ることになった。アジアの民主主義は政治を映し出すスクリーン(思考の形式)を必要としている。「明治維新の近代」はスクリーンを構成できない。

Facebookは映像を必要としている。わたしは書くためには映像を必要としている。これとは反対に、ハリウッドのシナリオと同じ感じで、国家における映像との関係は、国家は映像を集めるために言葉を必要としているようにみえる。コインに刻まれる皇帝の顔、紙幣の王様の顔、これらのリアルな映像はそれ自身で完結しているのではなく、常に言葉との結びつきから成り立つ。と、考えてみると、どんな言葉が書かれるのか?映像を集めるためには、国家が住処としていたという古代の文学に現れた始原的起源における平等のフィクションを書いたー近代がこしらえた始原的起源なのだけれど。元勲の顔のリアルに先行して、<明治維新150年>という国民統合の神話のフィクションが存在したのである。

ソクラテスの弁明』を現在読みますと、国家による<思想>の殺戮のことを言っているとわたしはおもいます。多分国家の外からは、国家による<思想>の殺戮をみることができます。人類的視点に立てば国家による<思想>の殺戮としてはっきりみえるものは、国家の中からみようとしてもみえないのです。国家が『ソクラテスの弁明』を読んでも国家は自分に都合よく 方程式<反体制イコール死刑>しか読み解けないのです。 実はプラトンが書いたソクラテスの思想は、正直わたしもわかっていませんが、‪(「大逆事件」で殺された幸徳を考えながらですが)‬、見えなくなってきても、獄中にいるソクラテスとともに失われることのない「思想」への決意を告げる思想だったのではないでしょうか。

‪地層として思想をみる見方は、福沢諭吉という問題をどう考えるのか。子安氏の福沢諭吉論を参考にしながら言うと、わたしの理解では、福沢は「社会」を人間交際の意味で捉えていたのであり、これは一見儒学的なものに対立しているが、朱子学の内面化を拒んで天下の公を考えた17世紀思想の古い地層が19世紀思想の新しい地層に潜り混んでいるというようなことが起きている。福沢が否定しようとした国家神道のブループリントが儒家的なものであった。それは19世紀の視点からみると政治神学的に社会契約論的に捉えることができるが、20世紀の丸山真男が考えるようにはヨーロッパ社会契約論のものではない。丸山のように理解すると、国家神道的な「徳」にたいして、明治初期の色々な可能性のあった時代の福沢が脱儒教ともいうべき言説「智」の解体的運動を展開させた位置と機能がわからなくなる。今日の問題は、言説「明治維新150年」は、こうした地層の運転として思想の歴史をみる見方を不可能にしてしまうことになる。福沢について丸山が理解した見方しかなくなる結果、アジアの自立的民主をもとめる人々は、人民の自立をはじめて言った思想の意義が消されてしまう。‬自立の思想をもたない人民は自立できないのである。独立という始原的起源に結びつくナショナリズムを繰り返すだけではないか。

ゴダールは短編含めて90本ぐらい作品があるのかな、70年を要した。24作品について書いたが、『映画史』一本は90本より遥かに大きい。わたしの力では書けないだろうな。‪ほんとうに嫌な世の中だから背を向けて一本一本について書いている‬

La cathédrale Notre-Dame de Paris est en feu, la flèche s'est effondrée !

フランス人はノートルダム寺院の事態に自分たちの感情を伝える言葉を失っているようだ。とっくに此方では人間らしい感情を語る言葉を崩壊させている。大島渚の言葉を思いだすが、明治から始まる日本なのだろう。「明治維新150年」が信の構造を崩壊させてきた

La seule chose qui survit à une époque, c’est la forme d’art qu’elle s’est créée.

(Jean-Luc Godard, Le Livre d'image)

ゴシック建築というと、ボヴァリー夫人の若い愛人との逢引の場所はルーアン大聖堂で、この教会の垂直軸と、馬車で逃れていく水平軸を描いたフローベルの見事な描写がある。ボヴァリー夫人は誰なのか?わからない。それは彼女をどこから評価するかによることなのだ。わたしの関心を引くのは、生きているのに恰も死者の思い出とされる‪ブルジョワ社会‬に反発している「私だ(Madame Bovary, c'est moi)」

Mais enfin le plaisir spécifique de voyage n'est pas de pouvoir descendre en route et s'arrêter quand on est fatigue, c'est de render la difference entre le depart et l'arrivée non pas aussi insensible, mais aussi profonde qu'on peut, de la ressentir dans sa totalité, intacte, telle qu'elle était dans notre pensée quand notre imagination nous portrait du lieu où nous vivions jusqu'au cœur d'un lieu desire , en un bond qui nous semlait moins miraculeux parce qu'il franchissait un distance que parce qu'il unissait deux individualités distinctes de la terre, qu'il nous menait d'un nom à un autre, et que schématisme(...)l'opération mystérieuse qui s'accomplissait dans ces lieux spéciaux, les gares, lesquels ne font pas partie pour ainsi dire de la ville mais contiennent l'essence de sa personnalité de même que sur un écriteau signalétique ells portent son nom. (Proust, noms de pays; le pays 'p.512) 問題提起; <フレーム>とゴダールが呼んだ建築術こそは<物で書かれたもの>(フーコ)の編集のこと <フレーム>とゴダールが呼んだ建築術こそは、<物で書かれたもの>(フーコ)の編集のことである。<フレーム>と編集、この両者は、ゴダールにおいて、互いに切り離せない関係にある。愛結局ゴダールの最も重要な構想とは、「映画史」が、映画と世界全体の全体的な関係を語ると同時に模造であることを示すことだった。五十年代後半までに映画はあらゆる可能性を消尽した結果。もう新しい映画は存在しなくなる。ただ、方法としての映画、未来と救いなきエクリチュールしか存在しないのだ。ゴダール曰く、 "フレーミングはどれもみな生まれながらにして平等で自由である。映画はどれも、フレーミングの抑圧の物語にほかならない。君は、例えば、ベルイマンのフレームの除去においてであれ、フォードとロッセリーニにおけるフレームの不在においてであれ、エイゼンシュタインと共にフレームの現前において、フレームに関して常になにかを、その愛人達を、神々を、あるいはその飢えをなだめることが問題だということをみるだろう"(奥村訳)。 バベルの災厄と比肩できるほどの災害といっても過言ではない、トーキー映画が出現させた<語りの力>。これは、闇の領域にあった<物で書かれたもの>にクローズアップの光によって照らし出し迫害し亡命に追いやったのである。もはや、<物で書かれたもの>を、ハリウッド映画のショットに求めても、またマフィアの発明と彼が言う「シナリオ」の語に求めても無駄なこと。パレスチナ帰還後の、ゴダールの抵抗を集約した方法としての映画は、七十年代後半における「映画史」の構想であったことを強調したい。<物で書かれたもの>は、言語の空間と宇宙の様々な場所や形象との交錯のうちにさがさなければならないだろうー詩とともに。