言葉

世界史的に言って、伝統を完全に断ち切った近代化ー議論を否定したクーデターの暴力によるーは、明治維新の近代のほかに例がない。この異常な近代化は明らかに失敗したのに、まだ明治維新が成り立たせた国家に益々隷属していくばかりで抵抗できないでいる。明治維新で成功したものといえば、言文一致の近代文学だけだが、それもすでに終わったという指摘もきく。結局この150年の間に喋ってきたものは言葉なんかではないかもしれないのだ。こうして喋っていることができるのも明治維新の近代によるものであるけれど、あえてこう言わなければ何が問題となっているのかがわからぬから言うのである。‪言葉は言葉としてあるためには、外部にある過去との関係を考えることができなくなったことを知らないために考えることが不可能となっている自身の限界を言葉が問う必要があるのではないか。‬