‪ゴダールの『女は女である』(Une femme est une femme 1961)‬

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ゴダールの『女は女である』(Une femme est une femme 1961)‬

‪1960年は50年代の映画から来たようなどこの国の話か曖昧なコスモポリタンの暗闇が残っていただろう。昔、『アルファヴィル』のそんな世界に浸ろうと深く腰かけていたら、1メートル横で照らされることなく暗闇の中で静かに立っている一人が数十名の観客に向かって映画を紹介し始めた。時々ダブリンに来るらしい。「美しい映画」とたたえていたのはアンナ・カリーナだった。ゴダールの映画は見続けているらしい。‬

ゴダールは娼婦というテーマをもっていた。『女は女である』 からは、Anna = nAna = Nana というジョイス的遊戯の前衛を読みとることができる。読み取れなくとも構わない、マッチョ主義から遠いミュージカルの大衆性の愉しみに委ねればよい。

『女は女である』は60年代の美学的探求の時代に属する。暗闇をどう意味づけるかによって、ゴダールの映画の変化を捉えることができるのかもしれない。

60年代は、暗闇は美学的である。映画史に先行して美術史がゴダールに存在していた。懐疑精神のもとで調和を重んじる理性の笑みというか。

70年代は、暗闇は政治的である。ビデオが映画の暗闇を回復できるなどとは考えない。いかに見えない声なき声を声にしていくという使命をもっている。制作は否定=匿名でなければならない。正義を求める理性の怒り。

80年代は、暗闇は倫理的である(天から意味づけていく平等を求めて、即自的な暗闇は国家を超える否定にある。)「初めに理性(ロゴス)ありき」。言語的存在である人間からの問いかけ。