フーコ『言葉と物』を読む

フーコ『言葉と物』のどの章が一番大事ですかときいたとき渡辺一民氏は「最初と最後」が大切だと語ってくれた。その「最初」は「序文」のことだったのだけれど、わたしは「第一章 侍女たち」のことだと長い間勘違いしていたことにひどく呆れた。「あんなものは訳せないことはないんだ。」と。あのときは何も言えないままに黙っているしかなかったが、今なら少し何かを言えた。「第一章 侍女たち」は絵を解説している文ではない。画家をあたかも文字で描く画家の如くロゴスとしてとらえている変な文なのだ。ロゴスはトータルに自らのあり方を説明するときどうしても言葉を必要とする。これがわからないのである。‬

‪「画家は絵から心もちさがったところにいる。モデルに一瞥をあたえているところだ。あるいは、仕上げの筆を加えようとしているのかもしれない。だがもしかすると、最初のひと筆がまだおろされていないのかもしれない。画筆をもつ腕は、パレットの方向、左にまげられている。いま彼は、画布と絵とのあいだで身動きもしない。その馴れた手は視線み吊られ、視線は逆に、静止した動作にささえられている。画筆の鋭い先はとはがねのような視線とのあいだでは、光景がその立体的空間を解き放とうとしている。」(フーコ『言葉と物』第一章 侍女たち、渡辺一民訳)‬f:id:owlcato:20190507130959j:plain